建設業で本当にあった心温まる物語③

 職業に貴賤はない、と言われます。ところが3Kと揶揄され、建設業は若者から人気がなく、新規雇用に四苦八苦している建設会社が多いという現実があります。

 そんな中、降籏達生さんが体表を務めるNPO法人建設経営者倶楽部KKCでは、「建設業で本当にあった心温まる物語」を集めて発信しています。その中から、選りすぐりのお話を紹介させていただきます。

土木作業員の母が私の誇り

     矢作建設工業株式会社   安藤 伸正

 私の母は土木作業員でした。朝早く家を出て、夕方には汗だらけ、泥だらけになって帰ってきて、僕たちの食事を作ってくれました。

 小学校低学年のころには母が何の仕事をしているかは知りませんでした。

 ある日、下校途中の工事現場で重機を使って道路の幅を大きくする工事をしているところがあり、5人くらいの作業員が泥だらけになりながら働いている姿を見ました。

 よく見ると、男性の中に混ざって、泥だらけになって働いている母を見つけました。なぜか汚い作業服で仕事をしている母に声を掛けることができず、見ないふりをして友達と話をしながら家に帰りました。友達に母を自慢できない私は、母の仕事をあまりよく思っていませんでした。

 そんな私も、今は工事現場の監督をしています。現場に携わるようになり、土木工事の大変さが身に染みて分かるようになりました。母は家事のかたわら、こんな大変な仕事をこなして、私たちを育ててくれたんだなぁと、今になって感謝しています。

 今でも、作業員の中に年配の女性が混ざっていると、母を思い出します。

  「姉さんかぶりで、泥にまみれて」

  「日にやけながら、汗を流して」

  「男に混じって、ツナを引き」

  「天に向かって、声をあげて」

  「力の限り、唄ってた」

  「母ちゃんの、働くとこを見た」。

 美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を聞くたびに、今は亡き母を思い出し涙が出てしまいます。土木作業員であった母を誇りに思っています。

お風呂を直してくれて、ありがとう

     株式会社熊谷組   田所 直樹
 
 2011年3月11日に東日本大震災が発生しました。当時、私はホテルの建設現場で最終の検査をしていました。突然、建物が大きく揺れ始め長い時間揺れました。13階から1階まで避難階段を駆け下り事務所まで帰ると、テレビに、津波が押し寄せる、見たこともない光景が映しだされていました。

 それから1週間後、仙台に災害復旧応援に行くことになりました。家族に仙台に行くと言った日、妻は泣きながら言いました。

 「なぜ、そんな危ない場所に行かなくてはいけないの」

と言われました。私は建設業に従事する人間として、できることをしてくると伝えて出発しました。

 仙台まではマイクロバスで7時間。高速道路は緊急車両の自衛隊や警察車両しかいない、異様な光景でした。仙台着任後、私は総合病院の復旧工事に行くことになりました。病院の外壁はひび割れ、配管はちぎれ病院はおろか、建物として機能を失っている状態でした。どこまで復旧させることができるか、とても不安でした。

 初日の帰り際でした、事務長さんから

「よく来てくれました。1日も早く直してください」

と、お願いされ、少し沈んだ気持ちに気合が入りました。翌日からは、電気・給湯・水の機能を回復させる工事に注力しました。中でも、要望が強かったのは、お風呂の復旧でした。浴槽は水漏れし、タイルは剥れ、使える状態ではなく、資材が届かない中での修復工事はとても苦労しました。

 着任3日後(震災から10日後)の夕方でした。手を骨折した少年とおばあさんが廊下で

「そろそろお風呂に入りたいね」

と、話をしていました。私はヘルメット姿だったので、工事関係者とひと目でわかることから、直接は言えないけど、聞こえてくれるといいなと思って話していたんでしょう。震災にあった人たちの心はとても傷ついているように見えました。そんな中でも、震災を忘れることのできる時間を提供できないかと思うようになっていました。

 それから3日後、ようやくお風呂が使えるようになりました。その日の夕方、私が帰り支度をし、休憩所でいると、あの時の少年が近づいてきました。少年は、風呂上りの髪が濡れている状態で

「お風呂直してくれて、ありがとう」

とだけ言って、去っていきました。今までに感じたことのない、嬉しい気持ちになったのを覚えています。そして、日ごろ忙しさで見失なっているものに気づかされました。それは、『建設業にしかできないことがある』ということでした。

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