「こころ便り」から⑱「公道を走る」

      木南一志

 寒い冬はまもなく終わりを告げようとしていますが、今が最も寒い時期でもあります。暦は立春を告げ、新しい春がやってきます。昨年末に鍵山相談役から頂いた手紙に「本来、公の中に私があり、私の中にはいつも公心が宿っているものです。」とありました。

 私達は運送業という仕事柄、公道を使って仕事をさせていただいておりますから、この言葉の意味がよく理解できます。しかし、昨今の風潮は、公の道路は、私たちの税金で作られたものだから、走る権利があるのだという尤(もっと)もらしい理由を主張しているコメンテーターとよばれる評論家がたくさん出てきました。確かに税金が使われて、計画がなされ、建設されて生まれたのが公共の道路や建物です。それは、権利として与えられたものではなく、みんなの生活を便利にするために要望されてつくられたものです。自分は希望していない、反対だったと言っても、その役割を果たす政治家を選挙で選び、行政機関を運営させるのは国民の義務です。もともとの始まりである義務を果たすことなく、きっかけと結果だけを見て、批判することは誰にでもできます。ボールを回して、パスの出来が悪ければブーイング、ゴールを決めたら大絶賛!というようなサッカーのゲームとは違うのですが、同じような展開になっていないでしょうか。

 皆が観客席にいて、口ばかりの評論家になっていないでしょうか。実際に汗してプレーをするにはルールがあります。そのルールというのは、「果たすべき義務」だと思うのです。

 星の王子様の著者、サンテグジュペリの言葉に「真の幸せは、自由の中にあるのではなく、義務を甘受(かんじゅ)する中にある」とあるように、義務を果たすことこそが幸せになる第一歩なのです。私が幸せになれないのは、幸せになる権利を奪われたから・・・などという議論をする前に、自分にできる義務を実行することです。

 「公道を走らせていただく」という気持ちで車を走らせると、道路へのいたわりの気持ちも湧いてくるはずです。本心良心という心から湧き出してくるものは、世の中を明るく照らす行動を生み出します。有り難いと思って走ることが出来るなら、譲る行為も自然に実行できるようになるのです。自分が急いでいるから、早く追い越してでも走る権利があると勘違いして、車間を詰めて追突事故へとつながっていくのです。

 電車の中で泣きじゃくる赤ちゃんを抱いた母親に「うるさいから黙らせろ」というサラリーマンが増えているそうです。自分も赤ちゃんの時があったはずです。今だけ、自分だけが良ければという悪い社会の風潮は、あなた自身の行動から良い方へと変わり始めるのです。大人が子供たちの手本を示す。トラックが乗用車の手本になる運転を。自分の仕事を通じて、世の中を良くしていくような人になってまいりましょう。

 被災地にこころを寄せながら