木下晴弘「感動が人を動かす」34「N君からの電話~現実から逃げてはいけない」

シリーズ「感動が人を動かす」34
「N君からの電話~現実から逃げてはいけない」

「涙の数だけ大きくなれる!」著者  木下 晴弘

学生時代から塾講師を16年間やっていたおかげで、最近電話をかけてくる教え子の声が「おじさん、おばさん」のそれになってきた。かくいう私も55歳。時の流れを実感する。
先日かけてきた医者のN君も43歳である。コロナウィルスの蔓延で死の恐怖と向き合う日々、合間を縫っての電話だった。「いま、逼迫した現場を何とか乗り切っているのは、高校受験の時の体験があるからだ」などと嬉しいことを言ってくれる。

私がN君と出会ったのは、彼が灘高を目指す中3生の時だった。小柄な体格で、生まれた時から体が弱く、しょっちゅう熱を出していたが、彼が授業を休んだり、弱音を吐いたりするのを一度も見たことはなく、いつもテキストが詰まった大きなカバンを引きずるようにして登塾してきた。
成績はトップクラス。全国模試の成績優秀者欄には、常に彼の名前があった。もはや彼の灘高合格を疑う者は一人としていなかった    入試当日、40度の熱を出すまでは。
中学3年間、遊びたい気持ちを封印し、雨の日も風の日もひたすら机に向かい、歯を食いしばって挑み続けた闘いの結果が問われる第一志望校合格発表の日、彼は散った。

さて今から30年ほど前、京阪神にある私立高校の入試は活況を呈しており、ほとんどの学校は統一入試日に試験が実施され、人気校は併願できないシステムになっていた。当然、灘高校や甲陽学院高校といった超難関校も例外ではない。そんな中たった1校だけ、灘・甲陽の合格発表翌日に入試を行う学校があった。大阪の私立トップ高、大阪星光学院だ。募集定員、わずか15名。第一志望校から引導を渡されたばかりの15歳。このあまりにも酷な状況下で、最後の最後に勝利を手中に収めるのは、わずか数時間で絶望の淵から這い上がることができた者だけなのだ。

難関高校の受験生である。実力は間違いなく持っている。そしてそれは一朝一夕でなくならない。しかし合否を左右するのは実力ではなく得点力だ。これはその日のメンタルに大きく影響を受ける。
不合格になったその夜、教室に集まったボロボロの彼らを甦らせるオペレーション。それをいつしか私たちは「起死回生の3時間」と呼ぶようになった。そして、試行錯誤の末にたどり着いたこのオペレーションには4つのステップがあった。

ステップ1 涙枯れるまで泣かせて、感情を抑え込まない
ステップ2 「自分は不合格になったのだ」という現実を直視させ、第一志望校に対する未練を断ち切る
ステップ3 実力と得点力の違いを明確にし、恐怖心を排除する
ステップ4 闘争心をチャージする

「今置かれている厳しい現状を直視する」と同時に「でも最後にこれに打ち克って、勝利を掴み取るのはこの俺だ!と信じて疑わない」。この一見背反する2つの感覚を同時に手に入れさせることで、甦る確率は飛躍的に跳ね上がる。

N君はこの時の体験を電話で伝えてきたのだった。

「先生、いま医療現場は大変です。正直投げ出してしまいたくなる時があります。でもあのとき教わった『厳しい現実を直視する』と同時に『最後には自分は打ち克つ』というマインドセットが僕を救ってくれています。ありがとうございます」

「そうか、そんなこと言っていたっけなぁ。でも想像以上に職場は修羅場なんじゃないのか?」
と問うとこんな答えが返ってきた。
「先生、どんなに腕のいい医者が大勢いても、どんなに新築でピカピカの建物でも、病院って暗いイメージがありませんか?実はそれには理由があるんです。患者さんは、程度こそ違いますが、必ず身体や心に疾患を持っておられます。だから苦しくてしんどい。すると人間は自分のことばかりになってしまうのです。他人の気持ちを思いやって行動することができなくなる。病院のイメージが暗いのはそこに原因があるのです。それは張り紙を明るいものに変えても、待合室のソファを快適な配置にしても、決して払拭することはできないのです。

払拭できる唯一の方法は、僕たち医療人が明るく、思いやりをもって振舞うこと。そしてそれが患者さんやご家族に伝播するまでやり続けること。これだけなのです。でも僕たちだって人間ですから、困難に直面すればイライラもします。愚痴の一つも出るのです。そんなとき、心が現実逃避を始めます。でも、あのとき僕は身をもって体験したのです。現実から逃げてはいけない。直視するんだ。そして同時に、最後は絶対にうまくいくんだと信じ続ける、ということを」

涙がこぼれてきた。あのとき彼を励ましていた私がいま、彼から励まされている。
「N君、ありがとう。目が覚めたよ。なんかエネルギーがわいてきた。お礼を言うのは僕の方だ」
「先生、この騒動が落ち着いたらまた飲みに行きましょう。病院の近くに日本酒のおいしい店ができたんです」
そう言って、大きなハートを持った、小柄な紳士は爽やかに電話を切った。