わたしなどまだまだ

「わたしなどまだまだ」

1年ぐらい前から、体が右に傾いている。最近では支えがないと歩けない。側弯症(そくわんしょう)と整形外科で診断された。腰骨が右にズレていているため、歩くうちに徐々に背骨が曲がってきてS字のようになるのだ。意識して真っ直ぐ立とうとするのだが、何かをし始めるとどんどん傾いてしまう。自転車に乗るのもこわいので、配達はもっぱらキャリーカートを使い一日六千から七千歩歩く。。むこの年齢では多すぎると言われてしまった。
開業間もない頃から四十数年、重たい本の箱を力に任せに持ち上げ続けて来た。さらに、二十七年前からは毎日曜・祭日一日も休まず傘の販売に出掛けた。50~60本入った傘のステンレス缶を、14、5缶も振り回すように運ぶ。担当のお医者さんからは、「そのツケやなあ」と言われている。でも、わたしなんてかなわない程に過酷な働き方をしているにもかかわらず、何も体に支障がない人もいる。つまり、自分の体の使い方が悪かった違いない。
主人に言う。「若い人に言わなあかん。できるからといって力任せに働いて無理を続けると、歳をとってからこんなことになるから気をつけてね」と。すると主人から意外な言葉が返って来た。「若い時の力任せがあるから今日があるんやで。歳をとってえらい目に遭うからといって手を抜いていい加減な事してたら、今日とう日はないねんで」。ハッとした。そうなのだ。若い時はみんな力いっぱいやるものなのだ。手を抜こうなんて思わないし、できないやしない。だから未来があるのだ。
大好きな作家さんの言葉がある。「未来は今日の掌の中に」だ。まさに、まさに!! だからと言って、しんどい体を勲章とは思えない。自分の体をさすって「上手に使えなくてごめんな」と謝るっている。一人で遠方に行くのも不安になってしまった。自ずと行動範囲も限られる。つい、一年前までは何の苦も無くできたのにと自分が情けなくなる。
でもそんなとき、目と耳が不自由な東大の教授・福島智先生の言葉を思い出す。「それでも生かされているのは、きっと意味があるのだ」「この苦悩にも意味があるのだ」と思い続けて来られたという。さらに、「思索は君のためにある」と言ってくれた友人の言葉を力に変えて生きて来たとも。それに比べたらわたしなどまだまだ・・・。しかし!まだ考えることができる。ましてや目が見えて耳も聞こえる。書けてしゃべれるわたしに、なんの不満があろうものか。それだけではない。多くの仲間が助けてくれている。今日も笑って歩いて行くのだ。