運転手さん、ありがとう (2009/5/31)

 昨年十二月のこと。名古屋市北区の千邑(ちむら)ハル子さん(73)のご主人は「余命何日」と言い渡されていた。何度も入退院を繰り返していると、病人自身のストレスも相当にたまる。苦しくて、ささいなことで周りに当たることも。だんだんと食が細くなり、病院食も口にできなくなっていた。

 そんなご主人が「ウナギを食べたい」と言い出した。元気なころからの好物だ。外出許可をもらい、何度も行ったことのある東区のウナギ屋さんにタクシーで出掛けた。しかし、かなり体が弱っており、足元がふらつく。車いすへの乗り降りにも、ハル子さんが肩を貸さなければならなかった。それでもその日は体調が良くて、なんと一人前を食べ切ってしまった。「おいしかったね」と笑顔で再びタクシーに乗り込んだ。

 病院の前の信号まで戻って来た時のこと。運転手さんがこう言った。「もし時間に余裕があれば、これから名城公園を一周してみてもいいですか」と。おそらく、余命いくばくもない病状なのだと推察してくださったのだろう。病室の中だけの生活で、目にするのは窓越しの外の景色だけ。思わず「お願いします」と口にしていた。

 次の瞬間、「あっ」と思った。運転手さんはそこで料金メーターを切り、再び発進してくれたのだ。元気な時に二人で散歩した場所だ。たった一周だったが、思い出がよみがえり、胸が熱くなったという。その二カ月後、ご主人は旅立たれた。「一言、お礼が言いたくて」とハル子さん。「運転手さん、ありがとう。主人も喜んでいました」