メルマガ「志賀内泰弘の恩送り通信」第30回「こんなスゴイ友達を紹介します!~数多のネタの抽斗を持つ男・山本孝弘さん」

メルマガ「志賀内泰弘の恩送り通信」第30回
「こんなスゴイ友達を紹介します!
~数多のネタの抽斗を持つ男・山本孝弘さん」

 ☆今の私があるのは、友人・知人・両親・親戚・先輩・同僚・心の師など大勢の人たちの「おかげ」です。いただいたたくさんの「御恩」を次の人へと
「送る」ために、新作や約3.000本のアーカイブスから厳選してお届けします。
名付けて「志賀内泰弘の恩送り通信」です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「山本孝弘さんをお願いします」
日本講演新聞の水谷もりひと編集長から、そう頼まれました。
「お願い」って、何をどうしたらいいのやら。
早速、スタバで待ち合わせをして山本さんに会いました。


聞けば、既に会社に辞表を提出し、2か月後に辞める決意をしているといいます。
「何をして食べて行くんですか?」
と尋ねると、
 「コラムニストになりたいんです」
と、生真面目な性格がすぐにわかるような瞳で見つめられました。
私は、間髪入れず、
 「おめでとう!」
と言っていました。でも、背水の陣をひかれているので、たいへん。
これは応援しなくてはならない。
でも、でも・・・そうそう簡単に、何も実績がない人が「書く」ことで食べていけません。
正直、「甘いな」と思いました。
ところが、です。
山本さんのデビュー作「明日を笑顔に」(JDC出版)のゲラを読んで、驚きました。
「上手い!」
のです。もう20年くらい書き続けているエッセイストのように手練れで、人の心をグィッと掴む文体を確立していました。
それは、「甘いな」と思った自分が恥ずかしくなるほどでした。
その後、山本さんの文章に注目して読み続けました。
「日本講演新聞」の社説は特に秀逸で、驚かされたことがあります。
「いったいこの人は、いくつ抽斗を持っているんだ!」
と。
たいていの人は、1冊目の本に力を入れ過ぎてしまい、2冊目のネタが枯渇するのです。
なのに、山本さんは、さまざまなジャンルの、それも硬軟とりまぜ、人を飽きさせない話を次々と発表し続けているのです。
ちょっと悔しい・・・かなり羨ましい。
5年後には大化けすること間違いなしの作家です。

 今日は、その山本さんのエッセイを紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「おせっかい」という愛の遺伝子
                  山本孝弘 
             
 ACジャパンのこんなラジオCMがあった。二人の若い女性の会話である。
 女性A「昨日お土産にな、大きいつづらと小さいつづらのどっちがええかって聞かれてん」
 女性B「ふ~ん、それでどうしたん?」
 女性A「私は、何が入ってるんですかって聞いたんよ」
 女性B「そういうの聞いていいん?」
 女性A「そしたら小さいつづらには親切な何かで、大きいつづらにはおせっかいな何かが入ってるって言うんよ」
 女性B「えっ、おせっかいな何かは要らんな」
 女性A「いらんやろ。でもな、よう考えたら親切なつもりでも相手にとってはおせっかいなこともあるやん」
 女性B「あるある!」
 女性A「つまりな、両方とも私にとってはおせっかいという可能性もある訳やんか」
 女性B「あるなあ…」
 女性阿A「もう分からへんわと思って親切な何かをもらって来てん」
 女性B「ええ! 何やったん?」
 女性A「持ってきたから今から一緒に開けてみよか。ほないくで。 せ~の!」
 ここでつづらが開けられる音が入り、中身を見た二人が言う。
 女性A「ああ、おせっかいや・・・」
 女性B「私には親切やで!」

 親切とおせっかいは紙一重だということを表した面白いCMだ。
そして最後のナレーションはこう締められていた。
 「親切とおせっかいの境目はあいまいで難しい。
おせっかいかもしれませんが、これからも受け取ってくれる人を信じて!」


 つづらの中身が何だったかはわからないが、学生時代東京で一人暮らしをしていた僕の元へ送られてきた母からの段ボールの中身はよく覚えている。
定期的に米を送ってもらっていた。
当時の僕はそれを当然のことだと思っていたのだろうか、感謝の気持ちがなかったように思う。
それどころか、毎回米と一緒に入っている多くのインスタント食品にうんざりしていた。
ついに僕は電話をして文句を言った。
あまりいろいろ送らないでほしいと。

 母はその時、怒るでもなく「それは悪いことをしたねぇ」と言った。
 僕は今あの頃の母より年上になった。
その時の母の気持ちを思うと何とも言えない申し訳なさで苦しくなる。
 翌月から段ボールの中身は米だけになった。
それが妙に淋しかったのを覚えている。
でも母は懲りずにまたその翌月から段ボールにいろいろ詰めてきた。

 母は人前に出るのが苦手で控えめな戦中生まれの女性である。
それ故、積極的に進み出て他人に親切にすることはないのだが、僕が子どもの頃、母のさりげない親切をよく目にした。
 買い物に行った時に倒れた自転車を見つけるとよく起こしていた。
ゴミ集積場で袋が破れているものがあると作業員が回収しやすいように家からごみ袋を持ってきて綺麗にしていることもあった。 
 あの頃家では地元の地方新聞を購読していたが、時々郵便受けに入れ忘れられることがあった。
その度に母は販売店に電話をした。
慌ててバイクで届けに来て平謝りする配達員に対し、母は配達員以上に頭を下げていた。

 小学生だったある夜、ドラゴンズが劇的な逆転勝ちをした。
翌朝僕は新聞を楽しみにしていたのだがまた届けられておらず、母にすぐ電話をしてくれるように頼んだ。
だがその日の母は適当に頷くだけでなかなか電話をしてくれない。
学校に行く時間が来てしまうので僕が再度強くお願いした時に母からこう言われた。
 「今日は我慢しない? こんなどしゃ降りの日にまた届けに来てもらうのは申し訳ないよ」
 そういう考え方があることを知り僕は驚いた。
僕は小学生でありながら「お金を払っているこちらが偉い」と信じ込んでいた。
損得抜きに相手を思いやる母の気持ちに従い、僕はその日の新聞を読むのを諦めた。
だが学校が終わり家に帰ると新聞があった。
僕がかわいそうだと思った母は販売店まで新聞をもらいに行ったそうだ。
母は運転免許を持っていない。
大雨の中、傘を差して行ってくれたのだった。

 「一般社団法人おせっかい協会」というものがある。
会長の高橋恵さんは母と同い年である。
僕は彼女を豊橋に招き講演会を主催したこともある。
 協会設立の趣旨はこうだ。
 「おせっかいは優しさの基本であると考え、おせっかいで助け合いの心を育み、見返りを求めない利他の精神に溢れかえる優しい国づくりを目指す」
 恵さんがおせっかいの大切さを知ったのは子どもの時だ。
ある一通の「おせっかい」な差出人不明の手紙が恵さんの命を守った。

 恵さんは三姉妹の次女。
子どもの頃のある日、家に手紙が届いた。
父の戦死を知らせる手紙だった。
恵さんのお母さんがまだ26歳の時だった。
お母さんは涙を流しながら子どもたちを抱きしめた。
 戦争が終わった後の生活も苦しく、近所では一家心中する家が何軒かあった。
心も体も疲れ果てたお母さんは恵さん姉妹にこう言った。
 「みんなでお父ちゃんに会いにいこうか…」
 次の日、玄関の戸に一通の手紙が挟まれていた。
 「あなたには3つの太陽があるじゃないですか。
どうか死ぬことを考えずに生きてください」
 近頃の恵さんのお母さんの様子を見て何かを感じ取った近所の方からの「おせっかい」な手紙だった。
母は三姉妹を抱きしめ泣き崩れた。

マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言った。
おせっかいの反対も無関心だ。
ならばやはりおせっかいは愛なのかもしれない。

 僕も愛のあるおせっかいで優しい世の中を作る貢献をしようと思う。 
年が明けると80歳になる僕の母は相変わらずおせっかいを焼いている。
僕の体にはその母から受け継がれた血が流れている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
山本孝弘さんへの講演や執筆の依頼先はこちらまで。
yamamoto@miya-chu.jp

☆☆☆志賀内泰弘公式サイト☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「いい話・いい仲間のプラットフォーム」
〇心が疲れたとき、悩んでいるとき、辛くてたまらないとき、
「いい話」駅の乗降場へ、ふらりとお立ち寄りください
 https://shiganaiyasuhiro.com/

〇志賀内泰弘がおよそ30年間、取材、体験を元に書き続けて来た
「ちょっといい話」のアーカイブスです。
ここに集まる「いい話」の主人公に共通するキーワード。
それは、ギブアンドギブ! 「利他の心」です。
忙しい毎日をお送りの皆さんに、日々の生活からちょっぴり途中下車して、志賀内とその仲間(賢人・奇人・変人・達人) たちの「ハートフルな感動物語」をお楽しみいただき、心の癒しにお役に立てたら幸いです。

【メルマガ「志賀内泰弘の恩送り通信」】アドレス登録解除
https://m1-v2.mgzn.jp/sys/unreg.php?cid=E3031164
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆