鈴木中人さん・「NPO法人 いのちをバトンタッチする会」誕生秘話(その1)

そして彼は会社を辞めて新しい生き方を選んだ」

苦難を背負った人は、その後、二通りの人生を歩む

 人生、一度も苦難なくして過ごせる人は稀でしょう。そんな中、入学・就職試験に落ちたり、仕事の成績が劣っていて出世できないのは、自分の努力不足が原因でしょう。しかし、世の中には、不条理・理不尽な出来事が多々おこります。例えば、病気や事故によるケガ。勤め先の倒産。地震などの災害。これらは自分の力では避けることができません。 そんな出来事に遭ってしまった後、人は二通りの「生き様」に分かれます。
 一人は、「なぜ、こんな不幸な目に遭わなくてはいけないんだ」と嘆き、儚んで自暴自棄になります。悲しみから逃れるため、アルコール中毒になる人もいます。働く意欲が失せ貧困に陥る人もいます。
 もう一人は、「このまま腐っていても仕方がない。もう一度頑張ろう」と再起をはかる人です。私の周りにも、大病に罹ったり、肉親を亡くしたりしてもめげることなく、頑張っている友人が何人もいます。以前よりも仕事に打ち込み、自らが経営する会社を成功させたり、出世したり。
 ところが、そのどちらにも当てはまらない「生き方」を選んだ友人がいます。私の親友・鈴木中人さんです。彼は、人生において出世やお金を望むのではなく、「人のために役に立ちたい」と思ったのです。
 娘の景子ちゃんが天国へ
 鈴木中人さんは、娘の景子ちゃんを小児がんで亡くされました。三歳のときに発病。幼い身にはとても辛く苦しい抗がん剤治療を受け、奇跡的に「治った!」と思ったのも束の間。脳に転移さていることが判明し、家族は失意のどん底に陥ります。やがて全身に転移し、痛みに苦しむ景子ちゃんの姿を目の当たりにし、中人さんは悶えます。そして、わずか六歳で、景子ちゃんは天国へと旅立ちました。
 中人さんは、その後NPO法人「いのちをバトンタッチする会」を立ち上げました。「いのちの大切さ」と「家族の絆」を伝える社会活動団体です。
 小・中学校などの教育機関だけでなく、企業にもその活動は広がり、30万人以上もの人たちが涙して中人さんの講演を聴きました。

なぜ、会社を辞めてまで

 何冊もの著作をあらわし、ドキュメンタリー映画まで制作。NHKのテレビ、ラジオを始めとして、数々のマスメディアでもその活動が取り上げられてきました。でも、その実績は「今だから」素晴らしい!と言えるものです。活動スタート当時は、不安のかたまりだったと推察しています。
 中人さんは、(株)デンソーでは企画部門の管理職でした。そのまま行けば安定し順調な会社生活と人生だったはずです。なぜ、そんな地位と年収を捨てて、社会活動を旗揚げすることができたのか?勤めながら、余暇に「できる範囲」でするという選択肢もあったはずです。
 親友ゆえ、聞きにくいこともある。でも、今回、あえてストレートに尋ねました。
「なぜ、会社を辞めてまで、「いのちをバトンタッチする会」を始めたんですか?」
 原罪意識が根底にあるのです
 中人さんは、私の問いに真正面から答えてくれました。
「その答は、一言で答えられるほど、簡単ではないのです。実は、活動をスタートするまで10年の月日を要しています。景子が亡くなって、それこそ10年もずっと、自分を責めて生きてきました」
「責める?」
「はい、景子が息を引き取った瞬間、『この子は私が殺した』と思ったんです。その原罪意識が、私の原点になっているのです」
 景子ちゃんが、完治の困難な種類の小児がんだとわかった時、「もし、命が助からないのであれば、苦しまずに安らかに天国に見送ろう」と決めたそうです。ところが、中人さんの思い通りにはなりませんでした。意識がない中、痙攣が止まらず、苦しみで唸る景子ちゃん。安らかに・・・と願って担当医に「もう手を尽くしました。苦しみをとる以外の治療は止めてほしい」と頼みましたが、希望は叶いませんでした。なぜなら、医療機関では当時も今も尊厳死となることを認められていないからです。
 やがて、最期の時が近づきます。あと2日か3日と告げられた時、苦しみを取り除くために大量の鎮痛剤を投与してもらいました。これで二度と意識は戻らなくなるはずでした。  ところが、景子ちゃんは「お母さん、お母さん」と呻きながら呼んだのです。医学的にはありえないことです。中人さんには、その一言が「お母さん、苦しいよお。助けて」と聞こえたそうです。
 「苦しまずに安らかに天国に見送る」ことができなかった。最期まで苦しませてしまった。自分が殺したんだ。そのことが、「原罪意識」として、今も中人さんの心の奥深くに張り付いていると言います。