あんがいおまるさんプロフィール

関西演劇界と出版界を担うスーパーガール

JCD出版社長。
出版・映像・音楽制作会社で自主劇団として「あんがいおまる一座」があり、
小劇場として「石炭倉庫」を運営しています。

あんがいおまる一座の
スタジオ公演(ストレート・プレイ)
本公演(ミュージカル)を行っております。

あんがいおまる一座では、それらを総称して『ドラマチック・メッセージ』と呼んでいます。

変な名前だけど、ちょっと意味があります。

「あんがい」=案外、“案外いいわね”なんて言うときの、あの案外です。
そして、案外=案の外=企画計画の外。
私たちの身の回りでは、自分の頭で考えたことではなくても色々なものが動いています。
宇宙や大自然なども誰が考えたものでもありません。
「あんがい」というのは、考えなくてもいい、素直に感じていればそれでいいという意味です。
次の「おまる」=「○」=宇宙という意味を込めています。

空を見上げて、何かを感じる。 そんな作品をお届けします。

https://www.sekitansouko.com/jdc_shinkan_top.html

志賀内泰弘

あんがいおまるさんのこと
~「夢にまで見た本を初めて出せた『あの日』」

 1999年の夏の事でした。
 「心の師」である経営コンサルタントの坂本亮一先生から電話がかかってきました。当時は、まだ携帯電話がそれほど普及しておらず、私の家の固定電話にかかってきたのでした。
 開口一番。
 「こんなことをしとったらあかんで」
 「え?」
 なんのことかさっぱりわかりません。
 「これや、これ。俳句の本や。バーコード付いとらへん。自費出版なんかしたらあかんで」
 そこで、ようやく意味がわかりました。
 その年、それまで詠んでいた俳句をまとめて、処女俳句集を編んで出版したのです。俳句の道の先輩に編集をしてもらい、装丁は自分で手掛けました。そして知り合いの印刷屋さんに頼んで限定500部刷ったものです。その1冊を坂本先生に献本したのでした。
 「今度、名古屋へ行くから会いましょう」
 そう言われて電話は切れました。
 その数日後のことです。
 名古屋駅のホテルのラウンジで、坂本先生は電話と同じことを繰り返されました。
 「自費出版なんかしたらあかんで」
 「そうおっしゃられても・・・」
 「ええか、ここへいまから電話しなはれ」
 そう言い、メモを渡されました。そこには、「JDC出版社長あんがいおまる」と書かれていました。そのラウンジの片隅にある公衆電話へ行き、その番号に電話をしました。
 「坂本先生からご紹介いただいた志賀内です。本を出したいのですが・・・」
 「坂本先生からのご紹介ですか。わかりました」
 「え?」
 「原稿はありますか?」
 「は、はあ・・・」
 あまり話が早く進みすぎて、追いつけません。
 「は、はい。大阪の『いい話の新聞』という小さな新聞にコラムを書かせていただいています。それがいくつかたまっています」
 「初版3.000部でいかがでしょう。ただし、一つだけ条件があります。志賀内さんは実績がありませんので、その本が売れるかどうかわかりません。そこで、そのうち1.000冊を買い取っていただけますか?」
 話の流れから、「断る」ということは考えられませんでした。
 「はい、わかりました。よろしくお願いいたします」
 「では、後日、原稿をお送りください。坂本先生によろしくお伝えください」

 こうして、私は、一部買い取り条件ではありますが、書店に並べてもらえる本を出せることになりました。あんがいおまる社長は、私がどんな文章を書くのかまったく知りません。でも、坂本先生の紹介なら間違いないだろうという「信用」の上に立ち、「即答」していただけたのでした。
 後でわかったことですが、JDC出版は相田みつをさんを、初めて世にデビューさせた会社でした。

 さて、こうして私の1冊目の本
 「いい話 こころに一滴たちまちさわやか」
は発売になりました。
 この1冊を読んでいただいた新聞社のデスクや、論説委員さんの声掛けで新聞のコラムを連載することになりました。
 その後の2冊目、3冊目の本を出せたのも、この1冊目があったからです。

 私は、坂本先生とあんがいおまるさんへのご恩を、どのようにしたら返すことができるかをいつも考え、2つのことを実践してきました。
 一つは、常に研鑽を積み重ね、一流の売れっ子作家になること。
 そして、もう一つは、坂本先生の真似をして、「これは!」という書き手を出版社に紹介してデビューさせることです。
 そして今も「恩送り」を続けています。
 鬼籍に入られた坂本先生の遺志を継いで。