野球部監督時代の苦い思い出

滋賀県東近江市の高校教諭・北村遥明さんは、毎月、心の勉強会「虹天塾近江」を主宰し、さらに個人新聞「虹天」を発行されています。
そこから、心に響くエッセイを紹介させていただきます。

野球部監督時代の苦い思い出
北村遥明

「北村先生、監督をやめてください」
十数年前、野球部の生徒にいわれた言葉である。

その野球部はずっと弱小チームだった。けれども、私はあきらめず指導をやりつづけた。ついには創部以来初の県内ベスト16にもなった。
その三年生が引退して新チームになり、人数は少なくなった。でも、私は厳しさを崩さなかった。
「先輩たちはもっと練習してたぞ!」
子どもたちの発憤につながると信じて、できていないことを指摘し続けた。
ところが、試合をやっても全然勝てない。勝てないと益々指摘が多くなり、練習時間が長くなる。
しばらくすると、無断欠席する者が出てきた。
「どうなっているんだ。今日もまた無断欠席の者がいる。お前たちも彼らに声をかけたのか!」
せっかく練習に参加している子どもたちにそう言い放った。それが八つ当たりだと気づかずに。
「何とかしなければ・・・」と思い、ある日、選手だけで話し合いをさせた。しばらくしてから、私は選手たちの前に立ち、「どうなった?」と聞いた。
しばらく誰も話さない。沈黙を破ったのはキャプテンのユウタだった。
「ベスト16になった先輩たちと比較されるのはもう嫌です。北村先生、監督をやめてください」
頭が真っ白になるとはまさにこの状況だった。
結局、一週間の練習停止。監督をやめるとはいわなかった。その間、私は授業など手につかない。心臓はいつもドキドキしていた。
その後、もう一人の顧問が何とか仲を取り持ってくれて練習が再開した。けれども、そんな簡単に部員との距離が縮まらない。とくにユウタとは。
真面目で誠実だった彼が、あろうことか私の授業で漫画を読むようになった。彼の反発心の表れだったのだろう。
でも、ユウタは心から野球が好きだった。だから、練習には毎日来た。私とはもと通りにはならなかったが、最後の夏の大会を経験した。大敗だったが、彼の表情には、最後までやり抜いた満足感が表れていた。

ユウタたちが引退してからは部員がたった五人になった。そして、私はようやく気づいた。
「過去のベスト16は過去のもの。目の前の子どもたちをしっかり見て、この子たちに合わせた指導をしていかなくてはいけない」
私は彼らと同じ体力トレーニングメニューを一緒に取り組み、八十段の階段も毎日のように十本駆け上り、一緒に汗をかいた。
しばらくすると、あのユウタがひょっこりグランドにやってきた。
「先生、就職が決まったので、できる限り練習の手伝いに来きます」
うれしい言葉だった。二か月前は、いつもにらむような表情だった彼の顔が、そのときほんの少しだけ和やかに見えた。ユウタは、最初は土日だけだったのに、毎日練習に来てくれるようになり、次第に笑顔が多くなっていった。気がつくと、私とも冗談が言い合えるくらいになっていた。
ユウタの卒業の日。私は彼にこう言った。
「ユウタ、選手時代は苦労ばかりをかけたな。ほんまにすまんかったな。でも、また練習に来て後輩たちを応援したってくれ」
ユウタは少し照れながら、笑顔で「ハイ」といった。彼は卒業後すぐに就職し、二年後には結婚した。しばらく年賀状のやりとりが続いた。子どもが生まれたという報告ももらった。

私はユウタから二つのことを学んだ。
一つが、生徒を「観る」ことの大切さだ。過去の経験や高尚な理論は参考にはしてよいが、ときにはそれらが生徒を観えなくさせることがある。リアルな彼らの姿を観て、それに合わせた最善の関わりをすることの大切を学んだ。
もう一つは、教師が変われば生徒も変わるということ。ユウタの引退後、私はますます大変な状況に追いやられ、自分のやり方を変えるしかなかった。でも、それがよかった。創部初のベスト16という過去を切り離せたのだ。そんな私の変化は、きっとユウタにも伝わったのだろう。
そして、改めて思う。今の自分があるのは、過去の生徒たちのおかげであると。