すべての人に平等に与えられているもの〜命には限りがあるということ〜

中野敏治さんに病気の体験を3つ、紹介させていただきます。

第1話 「生きているということ」

 2018年9月のこと。普段、健康には全く問題がなく、今まで大きな病気もしたことのない私。今年度もいつもの定期検診で終えようとしたが、翌年、3月に校長職を最後に、定年退職を迎えることを考え、最後ならば、と思い、人間ドックを受けてみることにした。せっかく人間ドックを受けるのなら、といくつかあるオプションのうち脳ドックを追加した。
 人間ドック当日、朝食抜きで病院に行った。検診を受ける前から、お腹が空いて昼食には、何を食べようかなと考えるほど、気楽に検診を受けていた。こんなに健康なのに、たくさんの検査をしてくれることが申し訳ないほどだった。

 検診は午前中で終わった。検診が終わると昼食券が渡され、病院の食堂で好きなものを選んで食べることができた。午後の検診結果の説明までは1時間以上ある。食堂でゆっくりと食事をし、そのあとコーヒーを飲みながら本を読んで過ごした。
 指定された時間に診察室に行くとドクターが検診結果の説明をしてくれた。普段から、全く自覚症状もなく、健康な生活を送っているから「特に問題はないですよ」と言うだろうと思っていた。
 血圧、血液検査の結果など、ドクターの机の前にあるディスプレイに映し出されているデータを見ながら異常がないと説明をしてくれた。ディスプレイの映像が脳の映像に変わった。脳ドックの説明に入ったとき、ドクターの顔がこわばったように感じた。健康には自信がある私なのにドクターの顔の様子や口調でドキドキしている自分が不思議だった。ドクターはペンを持ち、そのペンで目の前に映し出されている映像の説明を始めた。
「ここが前で、この部分が目のあたり。こっちが左脳、こっちが右脳になる」
 自分の脳を見るのは初めてだった。目玉がこんなふうに映るのかと気持ち悪く思いながらもその画像に釘付けになっていた。その画像の左脳の部分が真っ白になっていることに気づいた。ドクターでない私にもその部分は異様に感じた。ドクターはその白い部分を差しながら話を続けた。
「この白い部分が分かりますか。あまりにも大きいです」ドクターはそういうと一呼吸おいて「再検査を早いうちに受けてください。その時はご家族と一緒に来てください」と私に伝えた。
 そんな状況だったとは。自覚症状もなく生活をしていただけに、思わず「この画像は私のですか?」とドクターに問いたかった。
 そのまま2ヶ月が過ぎようとしていたある日、病院から電話がかかってきた。「具合はどうですか、もう2ヶ月が過ぎますが、ほかの病院で再検査をしているのなら良いのですが」と。忙しさに紛れて、病院に電話をしていなかった。あわてて、その電話で再検査を申し込んだ。再検査日は11月の最後の週となった。

 再検査の日、ドクターは「前回の検査から2ヶ月ほど過ぎましたが、この間、何か異常はありませんでしたか」と問いかけてきたが、全く自覚症状もなく、忙しい中でも普通に生活をしていた。
 すぐに検査室に移動し、造影剤を入れて脳の画像を撮った。その後、診察室でドクターは机の前に映し出されている脳の映像を見ながら、ゆっくりとした口調で説明を始めた。ドクターは前回よりも険しい顔になっていた。そして思わぬ言葉を。
「この病院では手に負えません。この腫瘍は大きすぎます。この後どうされますか。自分で病院を探しますか?それともこちらから大きな病院を紹介することもできますが」と。
 脳の画像を見ると、ドクターの言葉にも納得をするしかなかった。それほど、大きく真っ白になっていた。
 大きく呼吸し、冷静になろうとした。気がつけばドクターの問いかけに無意識のうちに「病院を紹介してほしい」と答えていた。
 その場で大学病院に電話をしてくれた。大学病院は翌週に行くことになった。それほど緊急な状態だったのだ。

 翌週、大学病院へ行った。大学病院のドクターは低い声でゆっくりと話し始めた。
「このまま何もしなければ、私はあなたに余命を伝えなければなりません。手術をすれば助かる可能性はあります」と。
 思いがけないドクターの言葉に、数秒、何も言えなくなった。生まれて初めての余命宣告。「いつまで生きることができますか?」と聞くこともできなかった。なぜか不思議と自分の中で迷っていた。ここまま、生き絶えるのを待ってもよいのかも、と。
 冷静になった。「手術をお願いします」とやっと声が出た。その後、ドクターはさらに詳しく説明をしてくれた。
「これだけの大きな腫瘍なので手術は8時間以上かかるかもしれない。もしかしたら二日に分けて手術をすることもあり得る」と。さらに「手術は100%安全とは限らない。もしかしたら、全摘は難しいかもしれない」と話をしたのだ。
 ドクターが話すどの言葉も実感することができなかった。常に冷静に淡々と話すドクターの話し方に、この話は私のことを話しているのかとさえ疑問に思いながら聞いている自分がそこにはいた。
 その場で手術日が決まった。時間がかかる手術なので、ドクターが丸一日、空いている日で一番早い日を調べてくれた。そして手術日は翌月となった。人間ドックで異常が見つかり、再検査後、2ヶ月しないうちに手術となった。こんなに短期間で、自分の人生が変わるとは。

 手術当日、病室に看護師さんが迎えに来た。病室から車椅子に乗せられ、手術室へ向かった。エレベーターの前で家族と別れた。私はなぜか家族に手を振っていた。車椅子がエレベーターに乗る時だった。「お父さん、頑張って。ここで待っているから」と子どもたちの声が背中越しに聞こえた。もう一度ここに戻るからと心の中で呟いた。大丈夫・大丈夫と自分に言い聞かせていた。

 エレベーターで手術室のあるフロアーまで下りた。朝、早いからだろうか。人は誰もいない。そのまま車椅子は止まることなく手術室へ向かった。手術室のドアは大きなステンレスの壁のようだった。そこで車椅子が止まった。落ち着こう、落ち着こうと大きく息を吸った。気がつくと私は胸の前で手を合わせていた。「生きたい」という気持ちが自然とそうさせていた。

第2話 「病気に感謝」

 8時間以上かかった手術が終え、集中治療室で全身麻酔から目が覚めた。そこには家族がいた。「ちゃんと戻ってきたよ」と家族に声をかけたかったが声が出なかった。周りを見渡すと身体にはたくさんの管が付いていた。私は生きて家族の元に戻ってきたのだ。それだけで嬉しかった。生きて戻れただけで、涙が流れた。

 今まで「生きること」「生きていること」「命の大切さ」など、たくさんの言葉を聞き、それらの言葉に納得していた。でも、その納得していたことは、知識としての納得でしかなかったことだと分かった。
 この病院に来た日、ドクターが「余命を告げなければならない」と人生で初めて「余命宣告的」な言葉を伝えられた。その時、それは自分のこととは思えなかった。それほど、「命」については、実感がなく、常に他人事として考えていたのだろう。実感をするには、切羽詰まった体験をしなければ人は本当のことは分からないのかもしれない。
 そう思うと、私は命に関わる病気になり、本当の意味で「命」や「生きていること」「生きること」について実感することができた。ありがたい気持ちになる。
 手術室に行く前に「お父さん、頑張って。ここで待っているから」と私に声をかけてくれた子どもたちの言葉を思い出すと、私一人の命ではないということを真に実感する。病気になったことに感謝さえする。

 集中治療室から病室に戻って、リハビリが始まった。指先がちゃんと動くための手や指のリハビリ、そしてちゃんと歩くことができるための足のリハビリが1日2回行われた。
 今まで、当たり前に指先を動かし、当たり前に歩いていたことができない。立てないどころかスリッパも一人で履けない。トイレにも一人で行くことができなのだ。必死でリハビリをした。理学療法士の方は自分の仕事が終えて、帰宅する前に病室に顔を出してくれた。そして一言「あしたも頑張りましょうね」と。その一言が私を元気にしてくれた。

 一人で立つことも、一人でトイレに行くこともできなかった私の体は少しずつ動きだした。身体中につけられていた管も一本ずつ減っていった。
 深夜にトイレに行きたくても一人で行くことができない。そんな時、深夜であっても病室に来て、トイレまで連れて行ってくれた看護師さんたち。額に汗をかきながら一人でリハビリをしている私のところに、時間外でも顔を出してくれた理学療法士の方。「少し動けるようになったから、1階のコンビニまで行ってみますか」と、一緒にコンビニまで行ってくれた介助員の方。「ベッドで横になる時間が長いから、腰が痛くなるでしょ」と、腰をさすりながら湿布を持ってきてくれた看護師さん。私がトイレに行っている間に病室へ薬を持ってきてくれた薬剤師さん。そのお薬の横には「このお薬は効きますよ」とメモがされ、笑い顔のイラストまで描かれてあった。「私、北海道出身でね。今頃は大雪よ」と私の心を和ませようと笑いながら話しかけてくれた看護師さん。
 再会することはないだろうと思う方々がこんなにも親切に、そして真剣に関わってくれた。この病気に罹らなかったら、こんなにも人の温かさを感じることはなかっただろう。

 病室も大部屋に変わった。病室は変わったが、窓際のベッドにしてもらった。「寒くないですか。廊下側のベッドが空きますよ」と言われても、私は窓側のベッドにさせてもらった。夜、看護師さんが病室を回って来たとき、「中野さん、カーテンを閉めましょうか。少しは暖かいですよ」と言われたが、退院するまでカーテンは閉めなかった。病室から朝日が昇るのが見えるからだ。その朝日とともに起きることが習慣となった。こんなにも朝日が昇ることが嬉しいとは思わなかった。朝日が昇ることは当たり前のことなのに当たり前ではないと気づいた。嬉しい。1日の始まりがこんなにも嬉しいとは。

 今まで分かったつもりだったことは、何一つ分かっていなかった。いや、頭では分かっていたのかもしれない。でも、意識の中では分かっていなかったのだ。この病気になって分かっていなかったということに気づかされた。

 生きている今、大切にしたものが増えてきた。感謝したいことが溢れている。この病気は、きっと私に足りなかった「大切にすること」や「感謝すること」を、身をもって知りなさい、という神様からのメッセージなのかもしれない。

 人間に平等に与えられているものはただ一つ。命には限りがあるということ。私たちは期限付きの命をいただいているということ。それを実感できたことは、きっとこれからの私の人生を大きく変えると思う。私の人生を大きく変えた病気に感謝しかない。
 私は生きていく。命は一つでも私だけの命でない。私を支えてくださっている多くの人のために。

第3話 「いのちは時間」

 手術から3年目の春を迎えようとしていた。定期検診は今でも続いている。人間ドックで見つかった真っ白な部分は、手術では完全には取ることができなかった。あまりにも危険な部分にあるのであえて取らなかったとドクターは定期検診で説明をしてくれた。そのおかけで、体のしびれもなく、動きもまったく問題ない。時々、自分の手足を見ながら動かしてみる。生きていることを実感する。「自分の意思で動く身体。私は生きているのだ」と。

 先日、いのちの授業で著名な鈴木中人さんが発行している「いのちびと」第43号を読んだ。この第43号に載せられていたコラムニストであり作家である方の文章に目が止まった。
 そこには「いのちは時間である」という医学博士の日野原重明氏の言葉が紹介されていた。日野原氏は「心臓は生きるために必要だけど、そこに命があるわけじゃない。これから一番、大切なことを言います。命とは、人間が持っている時間のことです」とも言われている。
 すぐに日野原重明氏が書いた「十歳のきみへ 九十五歳のわたしから」という本を読んだ。日野原氏はこの本の中で十歳の人たちへ向けたメッセージを載せているが、この本に載せられているすべての言葉、一つ一つが、今、生きている私へのメッセージにも感じた。日野原氏も自らの体験で「命ということ」「生きるということ」を知識ではなく意識の中で感じたのだと思う。次の日野原氏の言葉からもそれを感じる。
 「わたしにふりかかった人生で最悪の体験。そのおかげで、いまのわたしがあります」
 「時間にいのちをふきこめば、その時間が生きてきます」
 「寿命とは、わたしたちにあたえられた時間のことです」
 命に直面したことで、これらの言葉を読むと涙が出そうになる。それほど私の人生を変えた出来事。そして、私を変えてくれた病気に感謝をしている。

 NHK「こころの時代」で旧約聖書「コヘレトの言葉」の第3章の「時の詩」という言葉が紹介された。

「時の詩」

天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。
生まれるに時があり/死ぬに時がある。
植えるに時があり/抜くに時がある。
殺すに時があり/癒すに時がある。
壊すに時があり/建てるに時がある。
泣くに時があり/笑うに時がある。
嘆くに時があり/踊るに時がある。
石を投げるに時があり/石を集めるに時がある。
抱くに時があり/ほどくに時がある。
求めるに時があり/失うに時がある。
保つに時があり/放つに時がある。
裂くに時があり/縫うに時がある。
黙すに時があり/語るに時がある。
愛するに時があり/憎むに時がある。
戦いの時があり/平和の時がある。

 「いのちは時間である」という言葉、心の奥まで響いた。

 やまびこ会(全国教育交流会)を立ち上げた教育者である(故)山田暁生氏が以前、物事の締め切りについて話されたことを思いだした。 
 山田氏は、学校内のいろいろな通信活動を一冊の本として出版しようと数人で書いたことがある。その本は山田氏が、執筆された方々の原稿を集め、編集し、出版社に送り、そして書店に並べられる本となるものだった。
 原稿がテキストファイルでメールに添付され「山田さんの方で加除訂正をお願いします」と一言添えられ送られてくるものや期日までに届かず執筆者に催促のメールを何度もしたこともあったという。そんな中で本が出来上がった。
 最初に山田氏に原稿を送ってきた方は、病院で原稿を書き、締め切り前に奥さんがそのデータをメールで送ってきたという。全員の原稿が揃ったのは予定よりだいぶ遅れた。そのため、発行は数ヶ月遅れになった。

 しかし、出版前に残念なことが起きた。その本が発行される直前に、病院で原稿を書いた方が亡くなったのだ。奥さんから山田氏に「本にしていただきありがとうございました。主人も喜んでいると思います。今日届いた本を主人の仏壇に置きました」と連絡があったという。

 「いのちは時間」、そして「時間はいのち」だと、改めて実感をした。

いのちの時間は、自分だけの時間でないことを教えられた。
そしていのちは自分だけのいのちでないことを実感した。
生きていこう、大切ないのちを大切にして。悔いなく生きていこう。
どんなことがあっても生きていきたい。
病気に感謝し、多くの人へ感謝して。
「寿命という大きなからっぽのうつわのなかに、せいいっぱい生きた一瞬一瞬をつめこんでいく」(日野原重明氏の言葉)

この言葉、日々の生活の中で実感し、精一杯に生きていく。

 現在私は、週に数日、専任相談員として青少年や保護者からの相談を受けている。一人一人の相談者に「共に精一杯生きようよ。限りある命なのだから」と心の中でメッセージを送る。私が病気になり、その病気が私に教えてくれたことは大きい。

 生きているから悩み
 生きているから学び
 生きているから成長していく

命ある限り、精一杯生きていく。
すべての人に平等に与えられているものだから。