花咲か先生の学級日誌(第4話) 「長谷先生」

 「長谷先生」

 春が来ると思い出すことがあります。それは長谷先生のこと。

 長谷先生と出会ったのは私が二十七歳の時でした。三つ年上の長谷先生は優しく温かいお人柄で、運動ができユーモアに溢れた方。子どもたちからも好かれ、学級経営や教科指導も大変にお上手でした。

 ある日、私が下駄箱に行くと長谷先生と若い女の先生が話をしておられます。どうしたんだろうなと思いましたが、後日、その下駄箱で長谷先生がその若い先生にプロポーズしたということを知りました。時代ですねえ。 さて、その方とご結婚され二人のお子さんにも恵まれ、充実した教師生活を送っておられた長谷先生。

 私は長谷先生から学ぼうと仲間を誘って教育サークルを立ち上げました。長谷先生のご自宅に押しかけ、それぞれがレポートを持ち寄り教育について熱く語り合いました。
 サークルでのお楽しみは、その後の飲み会。みんなで居酒屋に繰り出し、遅くまでやいのやいのと教育について語り合いました。

 長谷先生は必ず私たちの話を受け止めてくださり、笑顔でうなずきながら聞いてくださいます。何かご自身の意見を言うときもストレートに言うのではなく、ユーモアを交えてやわらかく私たちに伝えてくださるので納得できました。私はそういう長谷先生を心から慕っていました。

 その長谷先生が、少し離れた学校に転勤になることが決まり、とても驚きましたが、こればかりは仕方がありません。
 同じ学校で語り合うのは最後だと、春休みに入るとすぐに長谷先生を激励するサークルを開き、その後、いつもの飲み会を開催しました。盛り上がりすぎて、午前を回ったことも気付きませんでした。

 その翌日、長谷先生は学校に出てこられ、「世界で一番偉いのは俺だわ。」とポツリ。ちなみに「えらい」というのはこの地方の方言で体がしんどいという意味です。二日酔いで体がしんどかったにも関わらず、こんなジョークも交えて話されたことが印象的でした。

 長谷先生は三月三十一日、学校での最後の勤務を終えると校舎に向かい深々と礼をされてから去っていかれました。その清々しい姿を忘れることはないだろうと、私は先生の後ろ姿を見つめ続けました。

 さて、四月一日。新しい年度が始まり、私はパソコンで新入生名簿を作っていました。 そこに同僚がやってきて、慌ててこう言います。「長谷先生が辞令交付式の会場で倒れられた。」と。

 どういうことだろうと状況が掴めないままいると第二報として「自宅に戻られたそうだ」と連絡が来ました。
 とにかく自宅へと校長先生と向かいました。「こういうときは、落ち着いて行動しないといけない」との校長先生の一言でなんとか冷静に運転することができました。

 自宅に着き仏間に通されると、長谷先生はそこに寝ておられました。
 でも、そのお顔には白布が掛けられています。どういうことか混乱した私は長谷先生の肩を揺すり、何度も何度も名前を呼んでいました。答えることのない長谷先生。涙が後から後から溢れでます。どれだけ時間が経ったでしょうか。

 ご両親や奥様の思い、幼いお子さんのこと。「なぜ、逝かれたのですか」無念の思いだけが広がります。
 長谷先生は脳の疾患で亡くなられました。私はサークルで飲み会に誘ったことを後悔しました。遅くまで飲んだせいで長谷先生の疾患を誘発したのではないか。葬儀でも、悲しくて、残念で、申し訳なくて、ただただ泣きました。

 その後の学校の離任式。本来なら、長谷先生が挨拶をされるはずでした。
 転勤する若い先生が「私は亡くなった長谷先生の事が大好きでした。でも、ありがとうございますという言葉を伝えられず、今はそれを後悔してます。」という話をされ、同僚や子どもたちも涙を流し長谷先生を偲びました。

 それから一年が経ち、長谷先生を慕っていた仲間でお墓参りに行くことに。お墓は、海が見える高台にあり、ご先祖様のお墓に囲まれていました。
 こうして春になると、ゆかりのあったメンバーで長谷先生のお墓にお参りをし、ご自宅に伺うようになりました。奥さん、お父さん、お母さんがいつも温かくお迎えくださり、長谷先生のことをみんなで偲ぶのでした。

 ある年のお墓参り。こんなことがありました。
 墓前で手を合わせていると一匹のバッタが墓から飛び出し、一番前の先生にしがみつきました。その先生がバッタを払うとその後ろにいた先生にまたしがみつきました。そして、また、次の先生に…春にバッタが出てくるのは珍しいことです。そのバッタは、知らぬ間にいなくなりましたが、不思議だなあと話していました。

 帰りに六人で喫茶店に寄りコーヒーを注文しました。すると出てきたコーヒーが七杯あったのです。「ああ、長谷先生がお墓参りに来た私たちについて来てくれたんだなあ」と仲間と話しながら、誰も座っていない席に置かれたコーヒーを見つめ、長谷先生のことを想うそれぞれ。

 長谷先生が亡くなって二十五年が経ったのを機に毎年していたお墓参りと自宅訪問を最後にすることにしました。ご両親も年を重ねてこられたので、ひと区切りをつけることにしたのです。

 しばらくして私は小学校教員を退職しました。退職した翌日の四月一日。この日は長谷先生が倒れられた日でした。そんなことを思っていると長谷先生のご両親・奥様よりそれはそれはりっぱな胡蝶蘭が届きました。そこには「長いことお疲れ様でした。たいへんに御世話になりました」と。

 その胡蝶蘭を見ながら長谷先生と出会った頃のこと、倒れられた時のこと、ご両親や奥様やお子さんのことを思い出していました。もう、ずいぶんと昔のことになりましたが、私の中では風化していません。今でも、長谷先生を想い、言葉をかけることがあります。

「長谷先生。生きていたら校長先生として勤め上げ、りっぱな教育者となり、但馬の教育界を担っていたんでしょうね。『西村さん、コロナが収まったら飲もうで。』そんな声が聞こえますよ。退職した奥様とは、たまにお話しします。お元気です。長谷先生。これからも私の心にずっといてください。そして、たまに、こうしてお話ししましょうね」