最終回「やってみなきゃわからないだろう」前編
ヒダカズのココロの授業【最終回】
比田井和孝
やってみなきゃわからないだろう! 〈前編〉
発達障がい児の運動・スポーツ指導を行っている「株式会社チットチャット」社長、森嶋勉さんから、そこに通うA君のお話をお聴きしました。
A君は脳性麻痺の障害があります。ぎこちない歩き方で、走ることもできません。A君が小学生の頃、学校の帰りが遅い日が続きました。お母さんは気にも留めずにいたのですが、何日かして他のお母さんから、「A君、この間、学校のグランドで野球の練習を楽しそうに観ていたわよ」と言われました。お母さんは「まさか…」と思いながらも、次の日、隠れて学校のグラウンドにいってみたところ…そこにはとても楽しそうに野球練習を観ているA君の姿があったのです。
お母さんは家に帰って来たA君に「野球、やりたいの?」と聞きました。するとA君は「やりたくない」と答えます。でも、A君は次の日も練習を観に行きました。そして次の日も…。そんなある日、監督がA君に声をかけました。「野球、やりたいのか?」…A君は「できるわけない」と答えます。そりゃ、走ることもできない身体ですからそう思うのも当然です。ところが、監督はこう言ったのです。「そんなの、やってみなきゃわからないだろう!」
A君はこの言葉に驚きました。今まで、周りの人に言われるのは「君はここまでしかできない」という言葉ばかり。だから、自分でもできそうなことしかせず、「できるわけない」「やりたくない」と逃げてきたのです。ところがこの監督だけは違いました。「やってみなきゃわからない!」と言ってくれたのです。A君の顔はみるみる明るくなりました。きっとA君は、本心では野球がやりたくて仕方なかったのでしょう。そんなA君の表情を見たお母さんは、思い切って野球をやらせてみることにしました。
不思議と、普段ならお母さんが声を掛けて手伝わなければできないのに、こと野球に関しては、自分で準備をして、着替えて道具を持って忘れ物もなく出て行くのです。「自分がやりたいこと」に関しては、そんなパワーも発揮するんですね。とは言え障がいがありますから、たいした練習もできず、球拾いや片づけぐらいしかできないんじゃないかと思いません? ところが、この監督は違いました。「この子にはなにができるだろう…」と考え続け…ある日、A君にこう言ったんです。「A、いいか。もしも、お前が何かひとつでもいい、他の選手に負けないものがあったら、俺はお前を試合で使うぞ!」
A君、ビックリですよね。チームに入れてもらって練習に一緒に参加できるだけで楽しかったんです。きっと、「試合に出られる」なんて夢にも思っていなかったでしょう。ところが、監督が「試合で使うぞ!」って言ってくれたんです。さらに監督は続けます。「そうだなぁ…。バントはどうだ? 試合では、ここで確実にバントが決められたら勝てる、という場面が必ず何度かある。もしもお前が、誰よりもバントが上手くなったら俺はお前を使う。」
「自分には無理」とあきらめていたことに対して、「もしかして・…」と考えられるようになったら、人って変わりますよね。A君は早速バントの練習を始めました。まずは、ピッチングマシンでの練習です。たった一人でです。まずピッチングマシンにボールをセットしてバッターボックスに向かうのですが、A君は走れない上に歩くのにも時間がかかりますから、バッターボックスにたどり着く間に何球もボールが飛んでいっちゃっているんです。…で、やっとバッターボックスに入って何球か練習して、ボールが終わると、またピッチングマシンのところに行って…こんなことを毎日繰り返しました。ところが、ピッチングマシンはいつも同じところに同じボールが飛んで来るわけですから、いくら練習しても本番の試合では通用しないんです。
そこでA君はみんなの練習が終わると、チームメイトに「疲れているところ悪いんだけど、誰かボールを投げてくれない? バントの練習をしたいんだ…」と頭を下げるんですね。するとチームメイトは嫌な顔もせず、いつもA君のバントの練習に付き合ってくれました。そんなA君は、努力の甲斐あって、ついにチームの誰にも負けないようなバントができるようになりました。
実は、監督がA君に与えた役割がもうひとつありました。監督は考えたんです。守備でもA君を使えないかと。普通、考えませんよ。だって、脳性麻痺で、走ることも両手を高く上げることもしゃがむことも不自由なA君ですから。ところが、監督は練習でA君に「ファースト」をやらせました。A君は身体が不自由で、真ん中にきたボールしか捕れませんから、他の選手たちはA君の構えたところにボールを投げなければなりません。今までだったら多少外れても捕ってもらえたボールが通用しないんです。だから、みんな全神経を集中してファーストに送球するようになりました。どんな体勢からでも、です。そんな練習を続けていた結果、送球エラーがほとんどなくなりました。チームの「守備力」が飛躍的に向上したんです。
この監督さん、スゴイですよね。もう、私は身を乗り出して聴いていました。だって、教育に関わる人間の「鏡」じゃないですか。教育だけじゃないですね。職場の上司、チームのリーダー、…すべての人にとって、この監督さんの「この子のいいところは?」「この子はなにが得意?」「この子が役に立てる場は?」という考え方や目の付け所はお手本になりますよね。普通だったら、悪いところに目がいきやすいんです。でも、「いいところは?」と常に見ているんです。
さて、そして迎えたその年の大会。…信じられないようなことが起こったんです…。 (後編に続きます)