台湾で出会った「日本精神」2

私が一番受けたい「ココロの授業」
比田井美恵

台湾で出会った「日本精神」2

私は「台湾が日本を愛する理由」を確かめるために、台湾を訪れました。台湾と言えば一八九五年から終戦までの五〇年間、日本が統治していた場所です。
ガイドの片倉佳史さんはこうおっしゃっていました。「台湾の方は、同級会で必ず恩師を呼びます。そして、誰もが恩師を自宅に泊めたがるんですね。誰の家に泊まってもらうかでもめるくらい、恩師は大切な存在なんです」と。また、八九歳になられる楊應吟さんに「恩師」についてお聞きしたところ、思わず涙ぐんで言葉につまっていらっしゃいました。楊さんは、ご著書「素晴らしかった日本の先生とその教育」(桜の花出版社)の中で、こう書かれていました。「先生は、日本人と台湾人の教育における差別を取り払い、生徒を分け隔てなく思い気遣い、一人一人を心底心配してくださっていました」。
台湾が日本領だった五〇年間、日本人教師たちは、どのように教育をし、どのように台湾の生徒たちと接していたのでしょうか。一般的に「植民地支配」と聞くと、現地の資源を一方的に奪い、過酷な状況で無理やり働かせ、残虐な扱いをし…というイメージがあるかもしれませんが、日本は違いました。日本は「台湾は植民地ではなく、新たな日本の領土である」という考えの元、治安を良くし、衛生状態を改善し、農業技術を教え、教育に力を入れようとしたのです。
台湾での教育で大きな役割を果たしたのが伊沢修二です。伊沢は「台湾では教育こそ最優先にすべき」と強く主張。台湾市内の芝山巌(しざんがん)に、小学校「芝山巌学堂」を作り、日本人教師七名とともに教育を開始しました。教師達は、学堂に泊まり込みで教科書や辞書の編纂、教育制度の検討などに没頭。また、日本と台湾がお互いに理解し合い和していくことを理想としていたため、生徒と寝食を共にし、日本語教育だけでなく、日本の礼儀作法も教えたのです。彼らの熱心な指導に少しずつ生徒も増えていきました。
芝山巌学堂ができた翌一八九六年の元旦。伊沢と一人の教師が教師募集を兼ねて日本に一時帰国中、事件は起こりました。その頃、日本統治に反発していた「匪賊」と呼ばれる盗賊団のゲリラが一斉に反乱を起こし、芝山巌を襲撃したのです。ゲリラ達の不穏な動きは、実はその前から察知されていましたが、教師達は「身に武器を持つことなく民衆の中に入っていかなければ、教育というものはできるものではない。もし我々が襲われて、殉ずる(死する)ことがあっても、それはかえって台湾の生徒や人々に日本国民としての精神を具体的に見せることができる」と言い、死を覚悟した上で、その場に居座ることを決めていたといいます。
事件当日にも、さらに逃げるようにと勧められましたが、教師たちは「我らは教育のために尽くし、教育と存亡を共にするのみである。死して余栄あり、(余栄=死後にまで残る栄誉)実に死に甲斐あり」と、忠告にはまったく耳を貸さず、約百名ものゲリラに囲まれてしまったのです。六名は、その状況下でもゲリラたちになぜ教育が必要かを説き、一時は彼らを説得できたとも言われていますが、ゲリラたちの間には「日本人の首をとれば賞金がもらえる」とのデマが流れていたこともあり、結局六名とも亡くなってしまったのです。しかし、このような事件があっても、日本の台湾への教育の情熱は変わりませんでした。むしろ、「彼らに続け!」とばかりに、志高き日本人教師たちが続々と台湾へ向かったのです。
事件後、六名の教師たちの教育に対する情熱やその精神は、多くの人々に感銘を与えました。彼らは、地域住民の手によって葬られ、「六士(ろくし)先生(「六人のサムライ」の意)」と呼ばれ、芝山巌は「教育の聖地」と言われるようになり、台湾の教科書にも登場。毎年一月一日には盛大な慰霊祭が挙行されていました。彼らの「命を懸けて教育に当たる姿勢」は「芝山巌精神(しざんがんせいしん)」と称され、当時の台湾教育に多くの影響を与えました。その結果、日本統治直後(一八九五年)、総人口の○.五~○.六%だった台湾の学齢児童の就学率は、一九四三年頃には七〇%、また一九四三年には義務教育が施行され、終戦時には識字率が九二.五%に上り、これが後に台湾が経済発展をする基礎となったのです。
私は、芝山巌学堂跡を訪れました。そこには、六士先生のお墓がありました。伊沢修二さんはじめ、命を投げ打ってでも教育をすすめてきた教師たち。この方たちの志があったからこそ、今の台湾があるのですね…。
先日、私の知人がこんなことを言っていました。「姉が舞台照明の仕事で世界各地に行くのだけれど、台湾の方たちはみんな礼儀正しくて約束をしっかり守ってくれて信頼できる。他の国とは違う」と。実はこれも私たちの祖先が台湾の方たちに身をもって「日本精神」を教え、教育を施したからなんですね。
私は台湾を訪れて、改めて、日本人の素晴らしさを感じました。日本人として生まれたことを誇りに思いました。この記事を読んで一人でも多くの方に「日本人って素晴らしい」と思ってもらえたら幸いです。

※参考文献
「教育の聖地・芝山巌を歩く」(片倉佳史氏)
「台湾と教育」(山下りょうとく氏)

小島さん、鈴木さんへ
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