思い出の事件簿 平成26年5月号
思い出の事件簿 平成26年5月号
筆跡鑑定
先日来、今度の事務所通信の『思い出の事件簿』では、筆跡鑑定でとても希な経験をした事例を取り上げようと思っていました。
ちょうど、その時、タイミングよく、一冊の本が出版されました。それは、魚住和晃氏の『筆跡鑑定入門』という書籍です。筆跡鑑定というと、皆さんにとっては、ほとんど縁のない世界かと思います。
我々、弁護士にとっても、裁判などで筆跡鑑定を行なうことはあまり多くないです。印影の鑑定と併せて行うこともありますが、これまで思い起こしても、5,6件しかありません。しかし、筆跡鑑定をした事例というのは、一つ一つの事件内容を思い出せるくらい、印象深いものばかりです。それは、その人の人生にとって特に重要な局面で行われ、さらに重要な文書・書面が偽造されたかどうかというきわめてスリリングな場面を前提としているからだと思います。
今回は、その中でも最も印象に残り、シリアスな事例を取り上げようと思います。
なお、内容についてはプライバシーに十分配慮し、事実関係・経緯などを編集してありますのでご了承下さい。
1 鑑定とは
裁判所では、大きく分けると、民事訴訟での鑑定と、刑事訴訟での鑑定とに分けられます。
民事訴訟における鑑定は、裁判所の判断を補助するために行われる証拠調べの一つです。専門的には、裁判所の指定した学識経験者等が専門知識の報告をしたり、その知識を具体的事実に当てはめて得た判断の報告を指します。
刑事訴訟における鑑定も、同様証拠調べの一つで、裁判所や捜査機関が委嘱した学識経験者等が行います。精神鑑定はよく行われるので、皆さんもよくご存じかもしれません。
DNA鑑定は、民事、刑事共に行われ、特に最近はその制度が高まり、信頼性が高いことから、重要な判断では決め手となることが多いです。芸能人の子供との親子鑑定でも話題になったことは記憶に新しいですね。
2 裁判所などで、鑑定を行うことは、そもそも多くはありません。
鑑定としては、おそらく一番多いのは、遺産分割調停事件で、遺産に含まれる不動産の時価を評価したり、賃貸借の家賃・地代の増額・減額の当否を争う場面での、不動産鑑定士による鑑定ではないかと思います。その他、医療過誤事件で医療ミスがあったかどうか、交通事故で後遺症の事故との因果関係や、後遺症の等級を判断するために医師による鑑定もあります。
親子関係の有無についてもDNA鑑定が行われることは時々あります。もっともDNA鑑定が行われることは時々あります。もっともDNA鑑定がなかった頃の親子鑑定は、今とは全く異なった手法で実施されていました。今から思うといささか非科学的な感じを持ちますが、血液型(ABO型だけでなく、MN型とか色々種類があります。)、顔の形・骨相等の顔貌の相違度や、皮膚、指紋、掌紋等の人類学的検査で行っていました。現在ではまずこのような鑑定手法は採用していません。
3 裁判所は鑑定結果について拘束はされない?
親子関係不存在確認訴訟では、DNA鑑定の結果親子関係が、99.99%存在するとの鑑定結果が出れば、原告は敗訴(親子関係があることになる))、0%であれば、原告は勝訴(親子関係がないことになる)となるでしょう。DNA鑑定は高い信頼性があるからです。
反対に筆跡・印影鑑定については、例えば遺言無効確認訴訟、連帯保証債務不存在確認訴訟では、その筆跡がその当事者本人の筆跡である(印影がその当事者の実印による印影と同一である。)との鑑定結果が出た場合には、必ず原告が敗訴する(遺言が有効となる。)わけではありません。それは、筆跡・印影鑑定に絶対的に科学的根拠があるとは言えないからです。
しかし、これまでの私が担当した裁判では、筆跡・印影鑑定の結果が、勝ち負けの決め手になりました。
私の友人のAさんが、BからC(Aさんの知人)が、1,000万円を借りた時、連帯保証人となった、ということで資金返還請求の裁判が起こされました。Aさんが連帯保証人になったか否かが争われたのです。
Aさんは、金銭消費貸借契約書(借用証)の連帯保証人欄に書かれた署名と押された実印の印影が自分のものではないと主張しました。今から、20年程前のことです。Bは目の前でAさんに署名捺印してもらったと主張しました。この裁判で筆跡・印影の鑑定がなされたのです。
筆跡鑑定をする専門家は東海三県でも、そんなに多くはありません。このときは、元検察庁の技官で、刑事事件で長年筆跡鑑定を手がけてきた方が鑑定人として採用されました。Aさんは裁判所において、白紙に3回ほど自分の署名を書き、また実印で捺印しました。
鑑定結果は、連帯保証人欄の署名捺印は、Aさんの自筆であるし、実印による印影だとの結論でした。
Aさんは本人尋問で、このような金銭消費貸借契約書は見たこともないし、Bさんとも会ったことはないので、連帯保証人となるはずもないと訴えましたが、この鑑定結果が有力な決め手となって負けてしまいました。
当時としては、裁判所が採用した専門家が出した結果だから、これ以上争えないものと思い、Aさんにあきらめるように言いました。
4 一澤帆布事件
筆跡鑑定を巡って、非常に有名な裁判があります。京都の有名な老舗一澤帆布工業株式会社は、京都市東山区にある布製かばんのメーカーで、全国の有名デパートでも販売され人気のある商品となっています。
事件の内容のあらましは次の通りです。
前会長(3代目)Aが死亡し、会社の顧問弁護士に預けていた遺言書が開封されました。この遺言書(「第1の遺言書」)は、平成9年12月12日付で作成されたもので、内容は前会長Aが保有していた会社の株式(発行済み株式10万株のうち約6万2000株)のうち、67%を社長(当時)の三男信三郎氏の夫妻に、33%を四男・喜久夫氏に、銀行預金の殆どを長男信太郎氏に相続させるというものでした(次男はこの時点で故人でした)。
ところが、この遺言書の開封から4ヶ月後の平成13年7月に、長男の信太郎(元銀行員)が、自分も生前に預かった別の遺言書(「第2の遺言書」)があると主張しました。第2遺言書は、平成12年3月9日付で作成されたもので、内容はA保有の会社の株式80%を長男の信太郎氏に、残り20%を四男・喜久夫氏(以前家業に関わっていましたが平成8年に退社しています。)に相続させるというものでした。この通りに相続すれば、信太郎氏と喜久夫氏両名で会社の株式の約62%を保有となります。
複数の遺言書があり、内容が抵触している場合、抵触部分については、新しい遺言書の内容が有効となります。(民法1023条)従って、平成12年3月の遺言書が有効となりますが、2通の遺言書の内容が全く異なることから、「第2の遺言書」が偽造されたものとして、三男の信三郎氏が自筆証書遺言無効確認訴訟を提起しました。(第1次訴訟)
信三郎氏は、「第2の遺言書」の作成時点で前会長Aは既に脳梗塞のために要介護状態で書くのが困難だったこと、「第1の遺言書」が巻紙に毛筆で書いて実印を捺印しているのに対して、「第2の遺言書」が便箋にボールペンで書かれていること、捺印している印鑑が「一澤」ではなく信太郎の登記上の名字「一沢」になっていることから、第2の遺言書が無効であると主張しました。
細かい経過は省略しますが、裁判では、信三郎氏の主張は、無効と言える十分な証拠がない、として認められず、平成16年12月に最高裁判所で信三郎氏の敗訴が確定しました。
信三郎氏は、平成17年3月に、有限会社一澤帆布加工所を設立し、別に工場を確保して、一澤帆布工業の製造部門の職人65人全員が、信三郎氏を支持して同社へ転籍し、信三郎帆布という新ブランドを立ち上げ、一澤帆布店のすぐ近くに店舗を立ち上げました。私もこの店舗へ行き、カバンを購入しましたが、一澤帆布工業の店は閉めたままの状態でした。
信太郎氏は、代表取締役社長となり、喜久夫氏も取締役へ就任しました。さらに、店舗と工場についても、信太郎氏は、明渡しを求める仮処分申請を行い強制執行されたため、信三郎氏及び職人たちも店を退去しました。
一澤帆布工業は、製造できないため営業を休止しました。しかしその後、信太郎氏は職人を確保し、材料を別の業者からの仕入れに切り替え、営業を再開しました。
鞄生地を納めてきた会社や、取引先も、信三郎氏を支持して一澤帆布との取引を拒否したそうです。
【信三郎氏の妻による遺言無効確認訴訟】
(第2次訴訟)
今度は、信三郎氏の妻が原告となって、信太郎氏らを相手に、遺言書の無効確認と、信三郎氏らについて取締役を解任する旨の株主総会決議の取り消しを求める訴えを、京都地方裁判所に提起しました。
以前と同じ訴訟ではないかと、ちょっと奇異に感じるかもしれませんが、遺言無効確認訴訟は、利害関係があるものであれば、誰でも訴えることができ、最初の訴訟では原告になっていなかった妻には、最初の敗訴判決の効力が及ばず、同様の訴えが提起できます。
京都地方裁判所では、信三郎氏による訴えと同様に、請求は棄却されました。ところが、平成20年11月27日、大阪高等裁判所は、第一審判決を取り消し、遺言書は偽造で無効だと判断しました。そして、信三郎氏らの取締役解任を決定した平成17年12月16日の臨時株主総会の決議を取り消す、との逆転判決が言い渡されました。
最高裁判所も、この大阪高等裁判決を支持し、信太郎氏の上告を棄却しました。これにより、遺言は無効で、信三郎氏らの取締役解任を決定した株主総会決議を取り消すとの判決が確定したのです。
5 なぜ、第1次訴訟と第2次訴訟の結論が逆転したのか。
遺言書が偽造かどうかは、第2遺言書が真実遺言者によって書かれているかという点が争われるわけですが、第1遺言書がある場合は、それぞれの内容の違いや、作成されたときの遺言書の状態、遺言書と各相続人との関係等、総合的に判断するわけですが、最も重要視されるのは、第2遺言書の筆跡が遺言書のものかどうかです。そこでは筆跡鑑定が重要な位置づけとなります。
さて、第2遺言書の筆跡鑑定を行ったのは誰かというと、長男信太郎氏側は、科学捜査研究所OBの三人の鑑定人です。三男信三郎氏側は、当時、神戸大学の魚住教授や医者など三人でした。
科学捜査研究所OBの鑑定結果は、同筆(遺言書の筆跡と一致する)というもので、魚住教授の鑑定結果は、異筆(遺言書の筆跡と異なる)でしたが、最終的に魚住教授の鑑定結果が採用されました。
6 私が担当した自筆遺言書 無効確認請求事件
知人の紹介で、遺産分割の事件を依頼されました。
内容は、甲さんのお父様が平成18年2月5日に亡くなられ、お父様の後妻の乙、後妻との子丙との間で相続関係が発生しました。
どうも、このような相続人との関係等の場合、遺産分割を巡って争いが起きやすく、またこじれやすいとの印象を持っていますが、この件も大変熾烈な争いとなり、私の長年の経験でも、最も激烈な事件の一つになりました。
甲さんは、お父様の自筆で書かれた遺言書(第1遺言書)を持っておられました。平成12年3月8日の日付があり、亡くなられた後平成18年6月2日裁判所で検認手続きをしました。この時、乙も丙も、この遺言書につき特に意見を述べませんでした。
この遺言書によれば、遺産の約60パーセントを甲が、後妻乙は約25パーセント、丙は約15パーセントの割合で分けるというものでした。自宅は甲に指定されていましたが、自宅にはお父様と後妻が二人暮らししていました。甲と後妻乙は、甲が小さい頃から乙に育てられたことから、関係は良好でした。
従って、甲としても乙を自宅から出て行くようにいうつもりは全くありませんでした。
ところが、その後、乙が、平成17年2月3日付の自筆遺言書(第2遺言書)があるということで、平成18年9月3日に裁判所で検認手続きがなされました。
第2遺言書の内容は、甲が約20パーセント、乙が約50%、丙が約30パーセントというもので、第1遺言書とは大きく異なるものでした。民法上同一被相続人に複数の遺言書があった場合は、抵触部分に関して日付の新しい遺言書が効力を持つので、甲さんの立場はとても不利になります。
7 訴訟の提起
これは話し合いで解決が付く可能性はまずありません。
結局、甲さんは乙、丙を相手方として第2遺言書の無効確認訴訟を提起しました。
甲と、乙・丙は、お互いに、それぞれの遺言書を被相続人(甲さんのお父様)から渡された経緯を説明し、またそれぞれの遺言書の内容が、被相続人の心情や希望に添っていることを主張しました。
具体的には、甲さんの側として、
「被相続人は保守的な考え方の持主で、跡取りである長男が基本的に遺産を継承すべきと考えていた。父親との関係は亡くなるまで一貫して、良好で且つ深い信頼関係を保っていた。しばしば、父親宅を訪れ、親密なコミュニケーションを取っており、2人が親しく、信頼関係があった。」、
「被相続人は、かねてより乙が丙の嫁ぎ先に入り浸りで、自分の世話をせず、最低限の家事しかせず、乙と丙に対して不満を持っていた。」、
「従って、第2遺言書のように長男である自分に不利益な内容の遺言書を書くはずがない」、
「第2遺言書の使用された文字は、ぜんぶで135文字であるが、その中130文字は第1遺言書に使用されている文字で、両遺言書を重ね合わせてすかしたり、透写されたものだ。」と主張したものです。
これに対して、乙と丙は、「被相続人と甲は疎遠で、いつも甲に対する不満を述べていた。乙にはとても世話になってきたので、自宅は勿論、財産の多くを乙に渡したい。丙も経済的に困っているのでなるべく多くの財産を与えたい、といつも言っていた。」と述べました。
8 第一回目の筆跡鑑定の結果
第一回目の筆跡鑑定は予想外の結果でした。
これらの主張だけでは、第2遺言書が偽造であることは立証できません。
訴訟では、立証責任という概念があります。当事者が自己に有利な事実を立証できなかった場合、その事実は存在しないという取扱いを受けることを、立証責任を負っている、と言います。
例えば、貸したお金を返してくれ、という裁判を起こした場合、相手方が『借りていない。』と答えた時は、金銭消費貸借契約書を提出するなどして、貸したことを証明できないと、裁判所は貸したことを認めて、相手方に借りた金を返しなさい、という判決をしてくれないのです。
従って遺言書が無効だと主張する側で、積極的に無効であることの立証をしなければ、遺言書が有効とされてしまうわけです。
遺言書が無効であることを立証するためには、まず筆跡鑑定しかないと考えました。
過去においても5,6回筆跡鑑定がなされたことがあり、本来その科学性・客観性には疑問を持っていたものの、その他に立証する手段は思い浮かびませんでした。
結局、私は鑑定申請をして、鑑定人選定は裁判所に委ねました。裁判所では、一般的に鑑定人の候補者リストは持っています。その中で公平・中立と考えられる鑑定人が選ばれました。聞いたところでは、科学警察研究所の出身者だとの話なので、公正性には全く問題ない、真実は明らかにされるものだと、依頼者共々、鑑定結果には楽観していました。
ところが、鑑定結果は、被相続人のお父様の筆跡と同筆(お父様の筆跡で書かれたものである。)との、予想外の結果が出ました。
9 第二回目の筆跡鑑定申請
依頼者と対策を検討しました。
依頼者と私は、第一回目の鑑定申請をする前に何回も打ち合わせをしていますが、第1遺言書と第2遺言書を重ね合わせて透かしたり、共通に使われている文字の、長さ・形・傾きなどの文字の特徴・特質を、定規などで測ったりした結果、透写されたものと確信していました。それくらい両者で使用されている文字が似過ぎていたのです。同じ人が書いた場合、殆ど同じ文字を書くことは反対に難しく、ましてや、その間に何年もの隔たりがあれば、全く同じ特徴のある文字を書くことは難しいはずです。
このように判断していたため、どのような鑑定人であっても、こちらの言い分が容易に証明できると自信を持っていました。
ところが、鑑定結果は予想外のものでした。
しかし、第一回目の鑑定人は相等の経験者で、権威もそれなりにあることから、再度鑑定申請するしかないと考えました。ただ、問題は、対抗できるような鑑定人がいるだろうか、という点でした。勿論、裁判所が再度鑑定申請を採用してくれるだろうか、という心配もありました。
10 新たな鑑定人探し
まずは、筆跡鑑定のあり方や手法についてどのようなものがあるか、筆跡鑑定はどのような機関・研究者が実施しているか、その他筆跡鑑定の実態などを、インターネットの検索サイトを利用して調べました。
その中で、今回鑑定人となった警察科学捜査研究所OBが行っている、従来の「類似分析」と言われる、鑑定対象の双方に共通する文字の、外形的特徴を一文字ずつ比較する鑑定手法が、そもそも類似点が多くて当然である、透写して書かれた文字の鑑定には適さないことが分かりました。
その前に、たまたま、新聞などで取りあげられたことがあって、一澤帆布事件を思い出しました。詳しく、この裁判の具体的内容を調べましたが、そこで、私が担当している事件での共通性を発見しました。さらに、科捜研OBの実施した鑑定結果(第2遺言書が遺言者の筆跡と同一であるとの内容)が、民間の筆跡鑑定所研究者魚住和晃氏の行った鑑定結果と異なる内容で、裁判所も後者の鑑定を採用して第2遺言書が偽造だと判断したことに注目しました。
魚住和晃氏は、多角的で、且つ科学的分析手法をもって、筆跡鑑定を科学として高められており、まさに本件に適した鑑定人であると考えました。
裁判所へ再度の筆跡鑑定の申請をしました。裁判官は当初難色を示し、再鑑定することの根拠・合理性の説明を求められましたが、魚住和晃氏の筆跡鑑定研究者としての信頼性や実績を訴え、何とか採用されました。
第二回目の鑑定結果は、第一回目の鑑定結果と全く正反対で、第2遺言書の筆跡は、被相続人の筆跡とは異筆である、即ち第2遺言書は偽造されたものとの判断でした。
両方の鑑定書を比較すると、第一回目の鑑定書は、その大半を第2遺言書と被相続人の書いた書面の、同一文字の外形的合一性を延々と述べているに過ぎませんでした。
ところが、第二回目の鑑定書は、従来の肉眼鑑定による印象分析ではなく、コンピュータを用いて、スキャナーで対象を画像に取り込んで、専用ソフトを使用して、数値や画像表示による実証を試みる手法を用いていました。さらに、「個人内変動の数値化による比較」、「転折に見る運筆形体の相違」、「点画の交わりかたに見る相違」等を検証、分析し、客観性が見られ、説得力の高い内容になっていました。
11 両鑑定人の法定での対決
こうなると第一回目の鑑定と第二回目の鑑定と、どちらが正しいのか、より信頼性があるのかは、鑑定書の記載だけではなく、鑑定人本人から鑑定の手法・あり方など、筆跡鑑定理論に対する考え方を直接尋ねる必要が出てきました。結局、裁判所で両鑑定人の証人尋問が行われることになりました。
これはとても珍しいことではないかと思います。
両鑑定人の証人尋問の内容には実に驚かされました。
第一回目の鑑定人は、裁判所から選定された科学捜査研究所のOBと聞かされましたが、私が反対尋問で経歴を尋ねると、鑑定人の父親は確かに科学捜査研究所OBだったが、鑑定人自身は、元会社員であり、脱サラして父の筆跡鑑定業という仕事を引き継いだもので、鑑定手法や技術は父から教えてもらった、と述べました。仕事は父親時代からのつてで、年間100件以上を引き受けているとのことでした。
警察式の鑑定の中心は、類似分析で、具体的には、筆跡原稿を実体顕微鏡で拡大して、拡大された筆跡の分析を肉眼により行うものです。
筆跡鑑定士については、そもそも鑑定能力を測る国家試験はなく、全て鑑定士の独自の方法で、これまでの筆跡の知識や鑑定の経験によって、映像を分析して、2つの文書に共通する文字を取り出し、外形的な特徴を比較するのです。そして、両文書に共通する文字が100字あったとしたら、類似する文字が過半数あれば同一文字と判断する、とも証言をしたのです。
要するに両者の筆跡は肉眼による比較対象の結果似ているから、同一人の筆跡だ、と言っているわけです。
第二回目の鑑定人魚住先生は、裁判で証拠として採用される以上、科学性と客観性が必要であるが、科学捜査研究所OBによる鑑定は、技術的にもレベルが低いと考えておられるようです。
そして、筆跡鑑定を限りなく科学にまで引き上げるべく、コンピュータを用いて、まずスキャナーで対象を画像に取り込んで、各種のソフトを使用するなどして、より科学的な筆跡分析法を用い、従来の肉眼鑑定による印象分析ではなく、数値や画像表示による実証を試みる手法を取っていると述べられました。
そして、基本的に、第一遺言書に使用された文字を使用して、第二遺言書の内容が書かれている点について、次のような指摘をされました。即ち、各文字の縦横を精密に測定した個人内変動が、第一遺言書内の同一文字の個人内変動よりも小さく、さらに完全一致を示す1.00を中心に狭い範囲で集中しており、その筆跡の一致性は常識の領域をはるかに超えている、と言われたのです。これは、同一人が実際、同一機会に同じ文字を使用した場合でも、全く同じ文字を書くことはできず、差異があるはずなのに、第二遺言書ではほぼ完全に一致する文字となっているので転写したものと言わざるを得ない、ということです。
加えて、転折に見る運筆形体の相違、点画の交わりかたに見る相違があるとの指摘もされました。
なお、年間100件以上の筆跡鑑定をしている、との点については、厳密に鑑定して、しかも筆跡鑑定書を作成するのに、このような過密スケジュールでこなすことは、とてもできない、とも証言されたのです。
12 判決
判決では、第二遺言書が偽造されたものとの判断でした。
鑑定書の内容でも明白に科学性や内容の優劣がありましたが、両鑑定人の証人尋問をした結果、その科学性・信頼性のレベルに格段の格差があることが明らかになりました。
魚住鑑定の方が信用性ありと判断したのです。
既に作成されている遺言書の偽造が立証されることはかなり難しいと言えます。裁判官も偽造であるとの、よほど強い心証を持たないと、このような判断をすることは難しかったと思います。
魚住教授は、「(鑑定人は)玉石混交だから、司法の場ではどうしても警察官や、そのOBを信頼する傾向にある。いわば警察の独占市場になっていてそこに問題がある」、「科学捜査とは名ばかりで、経験と勘に頼ったもの。科学なら客観的・論理的な方法にすべきだろう。筆跡鑑定の分野だけが非科学的。」と指摘されています。
この判決に対しては相手方から名古屋高等裁判所へ控訴され、最高裁判所に上告もされていますが、いずれも相手方の主張を退けました。
このケースでは依頼者の、第二遺言書は絶対に偽造である、との確信と、何が何でもこれを証明してやるとの強い思いが、このような勝訴をもたらした、と言っても過言ではありません。やはり諦めてはいけないと実感した次第です。
13 筆跡鑑定は科学なのか?
DNA鑑定までの科学性・確実性があるとまでは言い切れないと思います。これまでの筆跡鑑定の手法・考え方は、到底科学性・確実性があるとは思えません。
しかし、魚住教授の鑑定手法・考え方をみると、かなり高度なレベルまで、筆跡鑑定の科学性が高められたと思います。