木下晴弘「感動が人を動かす」38「今日が誕生日のお父さん」

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シリーズ「感動が人を動かす」38   

     「今日が誕生日のお父さん」

 

      「涙の数だけ大きくなれる!」著者  木下 晴弘

     

コロナ禍中の自粛生活も2年以上が経過した。

緊急事態宣言が発令されていた時と比べて、かなり賑わいを取り戻しつつある街中だが、すれ違う人は皆マスク姿だ。以前なら違和感しかないはずのこの光景が当たり前になったことに、寂しさとあきらめと無力感が交錯する。

そして当然のことながら他人とのコミュニケーションも減った。バスや電車の車内で会話を楽しむ人もほとんど見なくなった。たまに少し大きな声がすると、周りからひんやりとした視線が投げかけられる。いや、そう感じるだけかもしれないが、間違いなくその空気は以前のそれとは異質のものだ。最近見かけるようになった床の矢印は、肉体的なものだけでなく、精神的にもとられるディスタンスを示しているようで気が滅入る。しかし先日「コミュニケーションは言葉だけではない」という救いを実感する出来事があった。

私の休日は家でのんびり寝て過ごす、わけにはいかない。「お一人様につき1個限り」の目玉商品を2個購入するために、家内から「スーパー付き添い」の指令が下るのだ。かくしてその日も私は近所のスーパーの店内にいた。

かなりの来店者数だったが、ここでも会話はあまり聞こえてこず、店内に流れる音楽と、タイムセールのアナウンスが賑わいを演出している。私の出番はレジを通過するときだけである。役割は2人できたことをアピールすること。時代劇のエキストラのようだ。家内が精肉売り場でじっくりと品定めをしている間、私は青果売り場で陳列を眺めていた。

スーパーは季節がよくわかる。この時期しか見かけない春野菜たちが並べられている。私は邪魔にならぬよう、少し離れた場所からそれらを眺めていた。70代半ばくらいだろうか、白髪の老婦人が大根を1本買うか、ハーフサイズにするか迷っている。そこにやってきたのが小さな男の子の手を引いた30前後のお母さんだ。「あら、タラの芽が出てるね。お父さん好きなんだけどねぇ」「お父さん誕生日だから買ってあげようよ」「う~ん、でもお母さん苦いのダメなのよねぇ」短い会話だった。すると老婦人が控えめにその親子に話しかけた。「私、これ、この間買って食べたの。天ぷらにしてね。苦みがほとんどないのよ。でも春の息吹がつまってる味がしたわ。旦那さん喜ぶと思うわよ」

しばらく見なかった赤の他人同士のコミュニケーションだ。その後どうなるかと私の野次馬根性が久しぶりにむくむくとわき起こった。「えっ、そうなんですか。だったら買ってみようかしら」と答えた彼女に老婦人は一言「タラにはオダラとメダラがあってね。これはメダラだから苦みが少ないのよ」そう小声で付け加えてその場を立ち去っていった。

知らなかった。私もタラの芽の天ぷらは大好きだが、お恥ずかしながら、タラに種類があることを初めて知った。老婦人のアドバイスがあったからだろうか、結局彼女はそれを買い物かごに入れた。

『お父さん、いい誕生日になったな』心の中でそうつぶやいた私はなんだか楽しい気分になって、鮮魚売り場へと冷やかしを続けた。

しばらくたって私はレジに並び、おつとめの瞬間を待っていた。ふと隣の列を見るとあの老婦人が並んでいる。カートの買い物かごには、大根1本を含む溢れんばかりの商品が詰め込まれている。『重いだろうなぁ。でもあれを持って徒歩で帰宅するとしたら足腰が鍛えられるだろうな。だから健康そうに見えるのかな』そんなことを考えていると、その老婦人の後ろに牛乳1本を持った強面の男性が並んだのだ。

その瞬間だった。老婦人はその男性の牛乳と、自分のかごを交互に指さし、無言で順番を譲ったのだ。顔には満面の笑みをたたえていた(ように感じた。マスクをしていたので口元はわからないが、とてもやさしい目をしていた)。

強面の男性は面食らいながらも、ぺこぺこと何度もお辞儀をしてその好意を受け取った。その数秒間、2人は終始無言であった。

言葉でのコミュニケーションがままならぬときでも、優しさを伝えることができるんだ。当たり前のことを再確認させてくれた老婦人は、わずか1時間もたたぬうちに3人の男性を幸せにしたのだ。

「今日が誕生日のお父さん」と「強面の男性」と「私」と。