木下晴弘「感動が人を動かす」32「バスタオルを部屋に忘れて」

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シリーズ「感動が人を動かす」32
「バスタオルを部屋に忘れて」

「涙の数だけ大きくなれる!」著者  木下 晴弘

最近ビジネスホテルの宿泊予約がなかなか取れぬ。インバウンド特需はありがたいのだが、出張先が観光地で週末ともなると部屋を押さえるのに一苦労だ。以前その状況に人気アイドルグループのコンサートが重なった。どこまで探しても満室で、ようやく目的地とは異なる県で一部屋押さえることができた。

観光旅行やコンサートの日程は、おそらく遅くとも半年以上前には決定しているのだろうが、出張はそうはいかない。早くて2~3か月、場合によっては来週いきなりなんてこともある。かくして空室争奪戦に連戦連敗と相成るわけだ。少なくとも東京オリンピックが終了するまで、この流れは収まりそうにもないとあきらめつつも、そんなあわただしさの中にも閑を見出す事柄がある。

一昔前、大浴場は旅館の特権であった。「旅館に泊まる」すなわちそれは「非日常の体験」であり、とりわけ部屋食と大浴場、そしてその横のゲームコーナーと卓球台がそれを演出していた。一方、ビジネスホテルは狭い部屋にユニットバスが当たり前で、その分料金も安く、まさに企業戦士たちの仕事場の延長線上という位置づけであった。ところが近頃、大浴場の設備を備えたビジネスホテルが増えたように思う。
仕事終わりの身体を思いっきり伸ばして、仰向けのまま湯に浮かぶと、そのひとときの非日常に疲れが消えていくのが分かる。やはり大浴場はいいものだ。その日の疲れが二日後に出る年齢になった私は、いつしかそんなホテルを探すようになった。

その出張で泊まったのは、屋上に大浴場があるビジネスホテルだった。業務が終わり夕刻のチェックイン後すぐ、大浴場が利用できる時間帯を館内利用案内の冊子で調べると「大浴場の脱衣場にはバスタオルが置かれていないので、部屋に備え付けられているタオルを持参してほしい」と書いてある。私は早速、バスタオルとハンドタオルと剃刀、そして着替えを抱えて部屋を出た。

脱衣場には、すでに湯上りの躰を扇風機の風に当てている同年輩の男性(Aさん)が一人。そして外国人旅行客と思しき白人男性が一人。浴場にも2~3人の気配があった。とにかく早く湯船にと、はやる気持ちを押さえつつ、脱衣かごにカッターシャツを放り込んだ時、これから入浴しようとしている白人男性が笑顔で、湯上りのAさんにしゃべりかけた。
「Where is the bath towel?」
どうやらバスタオルを部屋に忘れてきたようだ。Aさんがたどたどしい英語で返答する。
「In your room.」
白人男性は笑いながら手のひらを上に向けて「Oh~」と困ったようなジェスチャーをした。
それを見たAさんは自分のバスタオルを指して「Use this?」と問いかける。
白人男性はさらに笑いながら「Thank you. I'm all right. I have this.」と小さなハンカチをかざした。

私はその横を通り過ぎながら浴場に向かった。なんだかんだ言いながらもハンカチ一枚では話にならぬ。てっきり部屋にバスタオルを取りに戻ると思っていたのだ。ところがその予想はあっさりと裏切られ、直後に彼も入浴してきた。ハンカチで何とかなると思っているのだろうか。どう見ても表面積が私の1.5倍ほどもある巨体である。
『なるほど、覚悟を決めたんだ』などと要らぬことを考えながら湯船につかってまどろんでいると、その男性の鼻歌が聞こえてきた。根っから陽気な彼。

その日、仕事で少々凹むことがあった私の身体と心に急速にエネルギーが満ち溢れてきた。『そうか、彼は覚悟を決めたのではなく、人生で起こるすべてを楽しんでいるんだ』と思ったからだ。もちろんバスタオルを忘れたことは、それほど深刻なことではないかもしれない。でも、今の疲れた自分が同じ立場なら「今日はなんてついてないんだ!」と腹を立てていただろう。そんな気持ちで風呂に入っても、疲れが取れるわけがない。何かに躓いても笑顔で『まあ、こんなこともあるさ』と思える心の余裕こそ、人生の豊かさを運んできてくれる。彼は私に、改めてそれを気付かせてくれたのだ。

ゆっくりと風呂を楽しみ、身体は芯から温まった。いまだ続いている鼻歌を聞きながら、その白人男性に心の中で『Thank you.』とつぶやき浴場を出た。

バスマットで足を拭く私の目に飛び込んできたのは、横の戸棚に置かれた真新しいバスタオルだった。
その上にはメモがあり、こう書かれていた。
「To you who forgot the bath towel. Have a nice trip!」

Aさんの書置きか、Aさんから連絡を受けたホテルの方の書置きか、いまだに真相は謎である。だが、私はおそらくAさんの書置きだと思っている。
「Have a nice trip!」・・・旅先で偶然出会う人たちが交わすこの言葉の温かい響きが、心までも温めてくれる。