木下晴弘「感動が人を動かす」30「機上のシャイなプチ淑女」
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シリーズ「感動が人を動かす」30
「機上のシャイなプチ淑女」
「涙の数だけ大きくなれる!」著者 木下 晴弘
異常なまでに暑かった夏が終わり、ようやく秋風が吹き始めた十月半ばのある朝、私は大分空港に向かう機内にいた。
この日、私は中央の通路を挟んで左右二列に配置された客席の前方通路側に座を占めていた。窓側の隣席に座ったのは(おそらく二十代後半の)髪の長い女性であった。年齢がよくわからない理由は彼女がかけていた真っ黒なサングラスにある。とにかく大きいのだ。ファッションにはとんと疎い私は、どう表現していいかわからないのだが、今は亡き、往年の女優「塩沢とき」さんを彷彿とさせるサングラスとでもいえばご理解いただけるだろうか。いでたちは黒のワイドパンツ、黒のブラウスと何から何まで黒づくめ。大きなイヤリングに加え、派手なネイルアートが目立つ指。しかも搭乗の際、後から乗り込んできた彼女は私の横で立ち止まり、黙って自分の座席を指さした。
「あっ、どうぞ」と立ち上がって通路を譲った私に一言も発することなく乗り込み、それ以来ずっとスマホをいじり続けている。
「どうにもとっつきにくいタイプだな…」と思いはしたが、彼女にしても「中年オヤジにとっつきやすいタイプ」と思われるだけでも大迷惑なわけで、あまり気にせずシートベルトを締めて出発を待った。
滑走路を駆けた機体が上空で安定飛行に入ると、シートベルトの着用サインが消え、機内サービスが始まった。やってきたキャビンアテンダントさんの問いかけに、隣席の彼女は「ジュース」とぶっきらぼうに伝える。それが彼女に手渡され、次は私の番だ。
ここしばらくアイスコーヒーしか考えられない気候であったが、このとき久しぶりにホットコーヒーを飲みたくなり、ブラックを注文した私は、二重になった紙コップからじんわりと手に伝わってくる熱さに季節の変わり目を感じ、両手でそれを包み込んだ。
せっかくのホットコーヒーである。熱いうちに一口ほしい。しかし飲み口が小さいためにうかつに流し込むとやけどをする。何度も痛い目を見ている私はまず、蓋を開けて「フーフー」と二回息を吹きかけた。最初のひとすすりがたまらない。ゴクッと飲み終え、思わず「あ~っ」と声を発する。どこからどう見ても「さえない中年オヤジ」だ。しかしうまいものはうまい。二口目、三口目と香り豊かな熱いコーヒーが喉を焼きながら通り過ぎる感触を楽しんだ。もちろん一気に飲み干してはもったいない。途中からはなるべく冷めないように蓋をして、今度は小さな飲み口から楽しむのが通というもの。そんなことを考えながら紙コップを傾けたとたん、喉ではなく胸に熱い感触が走った。蓋がちゃんと閉められていなかったのだ。
やってしまった。無残にも茶色く変色した真っ白なシャツ。ネクタイをしていなかったために、そのシミはいわゆるⅤゾーンをいびつに染め上げている。慌ててキャビンアテンダントさんにウェットナプキンを三枚ほど頼み、裏にハンカチを当てて「トントン」やったのだが、多少薄くなるだけでシミは目立ったままである。シャツを新調しようにも、それだけの時間的余裕はない。「こりゃ、自虐ネタで笑いに変えるしかないな…」と思いあきらめかけたときであった。
右隣から無言で伸びてきたネイルアートの目立つ手に、シミ取り液と台紙が握られているではないか。一瞬驚きながらも、思わず「あ、ありがとうございます。使わせていただいていいんですか?」と恐る恐る尋ねた。すると、彼女は再び無言で、それをさらに突き出してくるではないか。『なんだ?この拒否を許さぬ威圧感は…』と思いつつも「あ、ではお言葉に甘えて…」と受け取った私は、そのアイテムを使わせてもらいながらも『お言葉に甘えて…って言ったけど、お言葉はなかったのだから言い直すべきか…』など、今まで経験したことの無いコミュニケーションに戸惑っていた。
流石にナプキンとは違い、見る見るうちにシミが目立たなくなってゆく。ある程度きれいになった段階で「ありがとうございました。おかげで目立たなくなりました。これから仕事なので助かりました。これ、新しいものを購入してお返しするべきだと思うのですが…」と、そのアイテムを差し出しながら問いかけた。それを無造作に手にした彼女は、無言のままバッグにしまい、再び何事も無かったようにスマホをいじり始めた。数秒間、彼女を眺めていた私は空気を読み「今回はご厚意に甘えます。ありがとうございました」とだけ伝えて前を向いた。
結局、彼女とは一言の会話も交わさず別れることになった。飛行機を降りて乗り込んだ空港バスの車内で、今あった出来事を思い出しながら、なんだか楽しくなってきた。無言には無言ゆえの優しさもあるのだ。
『シャイなプチ淑女と出会ったということか…』
そんな思いを乗せて、バスは大分市内へと向かっていく。
なった。