木下晴弘「感動が人を動かす」22

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シリーズ「感動が人を動かす」22
「機内でのハプニング」
「涙の数だけ大きくなれる!」著者  木下 晴弘

大阪に住む私はその日、伊丹空港から鹿児島空港に向かっていた。九州新幹線が開通してからずいぶんと鹿児島が近くなった気がする。熊本駅付近まではあまり思わないのだが、鹿児島中央駅に降り立つと空気は一気に南国の香りを漂わせる。その瞬間「ああ、遠くに来たんだな」と普段の出張ではそれほど感じることのない旅愁に、しばし疲れを忘れるのだ。そんな理由もあって、鹿児島中央駅は私の大好きな駅の一つである。とはいえ、新大阪から4時間少し。時間に余裕のないその日は空路にて鹿児島に向かったのである。

搭乗した飛行機は定員が100人未満の小型機だった。中央の通路を挟んで左右に2列ずつ。左側からA席-B席(通路)C席-D席だったと記憶している。私は一列目のB席に座っていた。ほぼ満席で飛び立った機が、上空で安定飛行に移ると、シートベルト着用のサインが「ポン」という音と共に消えた。そしてお決まりのアナウンスの後、飲み物の機内サービスが始まった。A席の客人は睡眠中、私は冷たいお茶、C席の客人(以下Cさん)はノーサンキュー、D席の客人(以下Dさん)はスープと、数少ないメニューの中から、それぞれの嗜好に合わせて注文を告げていくのだが、自分の番が最後のとき、他の客人がサービスを受けている間の目のやり場に困る私がいる。ワゴンばかり見ていると「いじましい中年男性」と思われるのではないか。さりとて、涼しげに前を向いていると「格好つけの中年男性」とは思われまいか。実は誰一人として、私の視線の方向に興味などなく、相手にさえされていないのだが、自意識過剰な私は勝手な妄想をめぐらせ、かくして顔だけは前を向けて横目でワゴンを凝視するという「最も怪しい中年男性」と成り果ててしまうのだ。

一通りサービスが終了し、空になった紙コップの回収がそろそろ始まろうとするときだった。Dさんが「うわっ」と声を上げ、コップが手から滑り落ちた。恐らく半分ほど残っていたスープが撒き散らされ、彼のスーツにコンソメの液体が降りかかった。その瞬間、Cさんは足を通路側に避難させたのだが、その動きは反射的で、今年の干支に喩えるなら、まさに猿(ましら)のごとく早業であった。
当然といえばそうであるが、DさんはCさんに向かって「大丈夫ですか?かかりませんでしたか?」と気遣った。するとCさんは「いや、私は大丈夫です。それより、すぐに拭き取られたほうがいいですよ」とキャビンアテンダントさん(以下彼女)を呼び状況を伝えた。すぐに10枚ほどのペーパーと5枚ほどのお手拭がDさんに手渡される。Dさんがスーツやシートを拭いている間、彼女はCさんに「お客さまは大丈夫でしょうか?」と尋ねると、Cさんは再び「ええ、全くかかりませんでしたよ」と笑顔で答えた。

その直後、Dさんは「失礼します」といって座席を立ってトイレに向かった。彼がトイレに入ると同時にCさんは先ほどの彼女に「申し訳ありませんがお手拭を2枚ほどいただけますか」と申し出たのだ。そしてお手拭を受け取るとスーツの裾を拭き始めたのだ。「やはりかかっていましたか?」問う彼女。「ええ、少しだけ」と笑顔のCさん。「大丈夫でしょうか?」「なに、たいした事ありませんから」そんな短い会話のあと、何事もなかったかのような涼しげな表情のCさんに、「最も怪しい中年」の私は、自分と比較し、恥ずかしいやら、憧れるやら。
しかし、この世知辛いご時勢に、少しばかりのぬくもりを感じたひとときだった。