木下晴弘「感動が人を動かす」13
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シリーズ「感動が人を動かす」13
「電車で見つけたプチ淑女」
「涙の数だけ大きくなれる!」著者 木下 晴弘
今年も年に一度の憂鬱な日がやってきました。そう、人間ドックの日です。昨年まではその日が近づくにつれ「少し節制しておくか・・・」と殊勝な行動をとっていた私も、今年は「節制して受診しても意味がない。普段どおりの中で検査に臨もう」などと、ただ禁欲できない情けない自分に、もっともらしい言い訳を並べあげ、(大げさかもしれませんが)生まれて初めて不摂生のど真ん中でその日を迎えたのです。
大変な結果が出てしまいました。いや、まさかここまでとは思いませんでした。異常を示す数値は赤い文字で表記されているのですが、赤が多すぎて目がチカチカします。目の健康を示す数値は正常でしたから、ありのままを受け取るしかない私は「よしっ」とばかりに、この日から年がいもなくダイエットに乗り出しました。医師に「まず歩くことです」とアドバイスを受けた私は自動車通勤を極力控えて電車通勤に切り替えました。重いキャスターを引き廻す通勤が「どれほど大変だろうか?」と心配していましたが、やってみるとそこまで苦痛でもなく「何でもまずやってみることだな」と当たり前のことに妙に納得しながら乗り込んだある朝の電車内でした。
ラッシュを避けるため、8時50分頃に乗り込んだその車両は座席こそすべて埋まっていましたが、立っている方は10名ちょっとで、ピーク時とは比較にならぬほど快適でした。4駅ほどで下車する私は減量もかねて扉付近に立ち、車内広告をぼんやり眺めていたのです。すると途中駅で赤ちゃんを抱っこ紐で抱えた方が乗ってこられました。それだけなら驚かないのですが、なんとその赤ちゃんを抱っこしていたのは、スーツ姿の若いお父さんだったのです。
男性も育児に参加する重要性が叫ばれて久しいですが、まだまだ見慣れない通勤列車の中での光景に、私は不意を突かれました。
その男性は疲れた様子も見せずに、つり革を握り、素敵な笑顔で目の前の赤ちゃんをあやしだしました。赤ちゃんもそれにこたえるように小さな手を伸ばし、お父さんのあごやほっぺを触りたくっていました。その様子を見ながら私は『今日の仕事中、赤ちゃんは会社があずかってくれるのだろうか』とか『もしそうなら、その会社の育児サポートの制度を知りたいなぁ』といった大きなお世話とも言えることばかりに関心がいっていました。とそのときでした。
その男性の斜め前に座っておられた初老のおばさんが「ちょっとちょっと」と言いつつ、スッと立たれて一言「さあ、ここに座って」と席を譲られたのです。
自分よりもお年を召された、しかも女性に席を譲ってもらうなんて思いもしなかったのでしょうか、その男性は慌てて「いえ、大丈夫ですから」と辞退したのですが、そのおばさんは笑顔でこうおっしゃいました。
「ごめんなさいね。あなたにではなく、そのかわいい赤ちゃんに対してお譲りすると思ってくださいな。足が宙ぶらりんの状態は思った以上に大変なのよ」
『おお、これは気の利いた素敵な一言。さてどうなるか?』と見守る私。すると「いや、しかし・・・」としばらく躊躇していた男性もやがて笑顔になって「わかりました。それではお言葉に甘えます。どうもありがとうございます」とそのおばさんの厚意を受け入れたのです。
「おいくつ?」「1歳と3ヶ月です」
「娘さん?」「はい。初めての子どもでして・・・」しばらく会話が交わされました。
私は彼の会社の『育児へのサポート体制』に関する話題にならないかと聞き耳を立てていましたが、残念ながらそうなる前に降車する駅に到着してしまいました。
到着駅で階段を降りながら、赤ちゃんをやさしそうに眺める彼と、それを気遣った彼女はまさにプチ紳士・プチ淑女ではないか!と少し嬉しくなったのです。