平成7年あの日のこと
「平成7年あの日のこと」
うちの店が施店が、47年目を迎えようとしていた平成7年1月17日。あの阪神淡路大震災は起きた。尼崎市も地域によって被害状況は異なるものの、一瞬にして街並みは変わった。うちの店舗兼住居も半壊した。店のすべてのガラスが割れ、パソコンは吹っ飛んだ。タンスは倒れ、店内の本もすべて棚から落ちた。
ただただ茫然とした。片付ける気力も湧かない。声さえ発することができず、頭が真っ白になっていくのを感じた。いったい、どれほどそうしていただろうか。やがて、西の空が白々と明けてくる。その時だった。突然、思った。「シャッターを開けなければ!」と。
だが、あまりにも焦っていたので、考えも及ばなかった。シャッターを開けたとたん、真冬の冷たい風が、ピューと容赦なく吹き込んできた。ガラスが割れているのだから当然のことなのに。慌てて閉める。透明のビニールシートを探し求め、画鋲で止めて再びシャッターを開けた。すると・・・。
店の周囲は悲惨な状況になっていた。すぐそばの2階立て文化住宅から火が出て全焼。7人の方が亡くなられた。ガス漏れの匂いの中、無声映画のように彷徨い歩く人の姿。その人たちがシャッターの音に振り向き、うちの店に飛び込んできた。「こわかったね!大丈夫やった?おじいちゃんおばあちゃんは?」と早口で尋ねてくれた。「うちは皆、大丈夫、お宅は?」と言うと、堰を切ったように自分らの状況をしゃべり「余震、気をつけようね」と言い帰って行く。次々とやってくる。本を買う精神状態ではない。でも、気づいた!人は著しい恐怖を体験した時、それを口にして吐き出すことで、そこから少しでも逃れることができるのたと。そしてそれには、地域に腰を据えてこつこつと営んできた、うちのような店がぴったりだったのかも知れない。
安心して話せる「いつもの店」の「いつもの人」。47年のうち、両親が築いてくれた30年のおかげで、地域での存在を認めてもらったのだと確信した。
震災で失ったものは大きかった。だが、絶望の中、「あの日」飛び込んで来た人々の「吐き出す」ようなお喋りに一筋の光を感じた。「あの日」から確実に、うちの店は変わった。今も落ち込みそうになったとき、「あの日」のことを思い出す。