命のエネルギーを渡す最期の時

日本講演新聞・魂の編集長の「ちょっといい話」第二十四回                                                    「命のエネルギーを渡す最期の時」
水谷もりひと

妻が実家のある岐阜県の老人ホームで生活していた九十六歳の母親を宮崎に移住させたのは今年七月のことでした。
七月の初めに母親を見舞ったとき、それはガラス越しで、しかももう会話もままならない状態でしたので、職員の方が入所生活の様子を教えてくれたそうです。その話によると、コロナ禍になって三年、入所者は一歩も外に出ていないというのです。
妻は「このままコロナ禍が続いていたら母の最期の瞬間に立ち会えないのでは」と思い、その日は悶々として思いで宮崎の我が家に帰ってきました。決意するのに少しだけ時間を要しました。しかし、我が家に着いた時にはもう心は固まっていました。「お母さんを我が家に引き取ろう」と。

介護が始まると日常生活にかなりの制限がかかります。それでも自分を育ててくれた親です。このままだと一生後悔すると思ってのことでした。
もちろん施設に預けることが親不幸と言っているわけではありません。我が家は今夫婦共に健康だし、まだまだ体力はあるし、子育て中とはいえ三十代の娘も同居しています。みんなで支え合っていけば何とかなると思ってのことでした。
九十年以上暮らした岐阜の地から宮崎という新天地に移り住んだ義母に対して、デイサービスや訪問看護ステーションなどの福祉制度をフル活用していきました。

三週間ほどして我々家族が介護生活に慣れてきた頃、義母はそれまで出来ていたこと、たとえば自分で食事をするとか、コップを持って水を飲むとか、そういうことが出来なくなりました。完食していた食事も口にしなくなり、水を口元に運んでもほんの少し飲むだけ。そしてひたすら眠る。食事の時間に起こして、食卓まで歩行器を使って歩いていくのですが、椅子に座った途端、また寝てしまいます。
訪問看護師は医師の指示を受けて点滴を処置してくれましたが、気が付くと自分で点滴を外しています。
義母の体は少しずつあちらの世界に旅立つ準備をしているように思えました。
「一日でも長く生きてほしい」という思いと「もう頑張らなくてもいいよ」という思いが日々交錯しました。いや、後者のほうが日に日に勝っていきました。

そんなタイミングで『みとりし』という映画を観ました。
この映画は、「看取り士」という職業をこの世に誕生させた柴田久美子さんの著書『私は、看取り士』(佼成出版社)が原案になっています。
とある街にある「看取りステーション」を舞台に、ベテランの看取り士の所長と看取り士になったばかりの高村みのりさんが、診療所の医師と連携しながら依頼してきた人たちの臨終の場面を支えていく物語です。
みのりさんの初仕事のお相手は診療所に入院中のキヨさん、八十三歳。息子・洋一さんの依頼を受けて、所長と二人で病院に向かいます。所長は「家に帰りたい」と言うキヨの気持ちを医師に伝え、訪問診療に切り替えてもらいます。
キヨさんの最期のシーンが印象的でした。医師が洋一さんに「集まれる親族の方に連絡を」と言い、医師は看取り士にバトンを渡します。
所長は洋一さんに看取りの作法を教えます。ベッドサイドから左手を母親の頭の下に入れて腕枕をつくり、右手で母親の手を握る。「抱きしめて見送る」これが一般社団法人「看取り士会」の流儀です。キヨさんは洋一さんの腕の中で静かに息を引き取りました。
この映画を観た後、「看取り士会」の事務局に連絡して、宮崎にいる看取り士さんを紹介してもらいました。そして看取り士さんに来てもらい、どのような流れで最期を迎えるかなどの打ち合わせをしました。

ところが、です。義母の体調は日に日に回復し、食欲は戻り、会話もできるようになり、自分の足で歩き始めたのです。
訪問診療で月一回来られるドクターが「特に悪いところはない」「数値も全部正常」「耳が遠いだけ」と言って驚いていました。
最近は良く笑い、よく食べます。百歳まで優に生きそうです。

そうは言っても、いのちあるものはいつかは亡くなるものです。義母を見て初めて気づきました。人は死ぬその時まで生きるのだということ。そして、年寄りから順番に死んでいくことは幸せなことだということに。

あのマザーテレサは「人生の九十九%が不幸でも最期の一%が幸せなら、その人の人生は幸せなものに変わる」と言いました。作家の瀬戸内寂聴さんは「人間は旅立つ時、縁ある人に五十メートルプール五十倍ものエネルギーを渡していく」と言いました。この二つの言葉に背中を押され、柴田さんは「看取り士になろう」と決意したそうです。
抱きしめて見送る――この看取りの文化が日本中に広がるといいなと思います。