精一杯生きよう、この命ある限り

日本講演新聞・魂の編集長の「ちょっといい話」第二十二回                                                  「精一杯生きよう、この命ある限り」
水谷もりひと

大学時代からの親友Sさんは、関西のほうで中学校の校長をしているのですが、彼は昨年、人生最大のどん底にいました。
その中学校の一人の生徒が自ら命を絶ったのです。いじめがあったわけではありません。確かな情報ではないのですが、当時じわじわと増えていた「コロナうつではないか」といわれていたそうです。
しかし、ご両親は「学校に問題があった」の一点張りで、毎日、夜になると仲間数人と学校に押し寄せ、校長のSさんに責任追及をしていました。でも本人が亡くなっている以上、原因は誰にも分かりません。
ご両親もこんなカタチで最愛の息子が先立ってしまい、心中うごめく悲しみと悔しさをどうしていいか分からず、最も身近な学校にその感情をぶつけていたのかもしれません。

Sさんとの共通の友人を通して私がこのことを知ったのは今年の十一月のことでした。聞くところによるとSさんは深夜、何度か遠くの港まで車を走らせ、そのまま海に飛び込んでしまいたい心境だったそうです。今までテレビのニュースでこういう悲しい事件を知ることはありましたが、担任の先生や校長先生の心境まで思いを馳せたことはありませんでした。無念でなりません。
私はふと、ある雑誌に載っていた知的障がい者の通所施設「のらねこ学かん」の施設長・塩見志満子さん(八五)の話を思い出しました。
志満子さんは三十八歳の時、当時小学二年生の長男を白血病で亡くしています。だから、四人の兄弟姉妹の末っ子の二男が小学三年生に上がった時は「もう大丈夫。お兄ちゃんのように死んだりしない」と胸をなでおろしたそうです。
ところがその年の夏、プールの時間に起こった事故でその二男が亡くなったのです。長男の死から八年後のことでした。
志満子さんが勤務先の高校から駆け付けた時にはもう息をしていませんでした。子どもたちの話によると、誰かに背中を押され、そのはずみでプールサイドのコンクリートに頭をぶつけ、そのまま沈んでしまったというのです。志満子さんの心は怒りに満ち溢れました。「学校も友だちも絶対に許さない」と。
しばらくすると、同じ高校教師の夫が大泣きしながら駆け付けてきました。そして志満子さんの心境を察したのか、志満子さんを近くの倉庫の裏に連れていってとんでもないことを言ったのです。
「これはつらく、悲しいことや。だけど犯人を見つけたら、その子の両親はこれから先ずっと自分の子どもは友だちを殺してしまった、という罪を背負って生きていかないかん。わしら二人が我慢しようや。うちの子は心臓まひで死んだことにしよう。校医の先生に心臓まひで死んだという診断書を書いてもらおう。そうしようや。そうしようや」
とても同意できない志満子さんでしたが、夫が何度も何度も「そうしよう」と言うので、仕方なく夫の言うことを聞きました。
これは四十年前の話です。毎年、二男の命日の七月二日になると、墓前に花がなかった年は一度もないそうです。「誰かが花を手向け、タワシで暮石を磨いている。あの時、私たちが学校を訴えていたら、お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった」と志満子さんはそう語っていました。
でも当時は、あまりにも悲しみが深く、もう教師を続けられないと思い、校長に辞表を出した志満子さんに校長先生は「あなたを必要としているところがある」と言って、紹介したのが養護学校でした。
知的障がい者の子どもと触れ合う中で、やがて志満子さんの心に「この子らと一緒に生きていこう」という気持ちが沸き起こってきました。養護学校卒業後、子どもたちの行き場が十分ではないことを知った志満子さんは、五十七歳の時、教師を辞め、退職金をすべて投入して「のらねこ学かん」を立ち上げ、今日に至っています。
子どもを亡くした親御の気持ち、あるいはSさんのような立場の人の心境を思うと、自分が今抱えている悩みや苦悩なんて微々たるものだと思い知らされました。まだまだ自分は甘いなぁと思いました。もっともっと頑張らなきゃと決意を新たにさせられました。