「何とかなるわよ」と言われ何とかなった二十年
日本講演新聞・魂の編集長の「ちょっといい話」第十九回 「「何とかなるわよ」と言われ何とかなった二十年」
水谷もりひと
コロナ禍の「禍」という字は「災い」という意味です。確かに「災い」には違いないのですが、みんながみんな、そのネガティブなムードの中で暮らしているのかというとそうでもなく、あちこちで「コロナのおかげで」という逆転の発想をしている人の話をよく聞きます。
僕の友人に杉浦貴之というシンガーソングライターがいます。がんサバイバー(元がん患者)の彼は、全国各地でいのちのライブ活動を開催しているのですが、今年はオンラインライブで頑張っています。
そんな彼に愛知県岡崎市の森本広子さんがポロっと「我が家でホームライブをしてくれませんか?」と呟きました。
杉浦さん、「もちろんです」。即答でした。
広子さんが企画したのは夫である伸幸さん(64)の「生還二十周年祝賀会」でした。
伸幸さんは二十年前の交通事故で頚椎損傷して首から下の機能を失いました。それでもこの二十年、明るく、懸命に生きてきた。だから家族でお祝いしてあげたいというのです。
だけど、コロナ禍で旅行も行く気がしないし、ご馳走を食べても太るだけ。それより伸幸さんが大好きな杉浦さんの魂の歌をプレゼントしようと思ったのです。
そこで杉浦さんはオンライン・ホームライブを提案しました。そのことで今までお世話になった人たちに感謝の気持ちを伝えられるし、伸幸さんの元気な姿も見せられます。
1996年、森本さんは会社の人事でアメリカ支社に移動になり、家族でロサンゼルスに赴任しました。アメリカの生活にも溶け込み、仕事もプライベートも充実していた翌年の春、首の下に妙なしこりを見つけました。
病院に行くと、「悪性リンパ腫」と告げられ、すぐ闘病生活となりました。手術、抗がん剤治療が始まりました。副作用でムーンフェイスとスキンヘッドになりました。その時の黒のサングラスはとても迫力あったそうです。
伸幸さんは言います。「アメリカの病院ってとても陽気なんです。誰も私を『かわいそう』とか『お気の毒に』なんて思いません。『今生きているんだから今を楽しもう』という雰囲気があるんです」
その陽気さも手伝って病状は回復し、気が付いたらアメリカ在住も4年。そして本社から帰国の辞令が出ました。
帰国1週間前、「送別会がわりに」と友だちから誘われ大好きなツーリングに出掛けました。そこで事故に遭いました。
先に帰国してい広子さんは再びアメリへ。伸幸さんも今回ばかりは陽気な気分ではいられません。一生車いす生活です。「情けない人間になった」と落ち込みました。
そんな伸幸さんを救ったのが日本から駆け付けた広子さんでした。伸幸さんが「こんな体になってしまった。ごめん」と謝ると、広子さんは一言、「楽しむために遊びに行ったんでしょ。だったらいいじゃない。何とかなるわよ」
伸幸さんは当時を振り返ります。「あれから二十年、本当に何とかなった。何とかなり過ぎて、息子たちにもいい嫁さんが来てくれ、孫も6人になった」と。
入院中、やっぱりアメリカの病棟は明るかったそうです。リハビリ中も森本さんが少しでもできなかったことができるようになるとナースたちは大喜びではしゃぐ。その楽天的な病棟の雰囲気に笑顔を取り戻した伸幸さんでした。
その後、帰国し、日本の病院に入院しました。そこでは「お気の毒に」とか「何て声を掛けていいか分からない」とか「病室で笑うなんて不謹慎」なんて雰囲気があったそうです。
さて、退院する時がきました。車いすで外に出ることに抵抗があった伸幸さん。「昔の自分を知っている人とは会いたくない」、そんな気持ちがありました。しかし広子さんがあちこち外に引っ張り出します。
ある時、生まれつき障がいのある男性にこう言われました。「森本さんはいいですね。羨ましです」と。「何がですか?」と尋ねると、「僕は生まれつきの障がい者です。それでも人生を楽しんでいます。森本さんは今まで健常者でした。これからは障がい者です。二つの人生を楽しめるんですからね」。その言葉で伸幸さんは吹っ切れました。これからこの体で人生を楽しもうと決めました。
そしたら、今まで出会ったことのない人たちと、しかも楽しんで生きている人たちと出会うようになり、仕事もプライべートも充実した二十年だったそうです。
今回、オンライン・ホームライブのおかげでアメリカでお世話になった人たちにも感謝をを伝えることができました。「これもコロナのおかげです」と伸幸さんは言います。
杉浦貴之さんの『大丈夫だよ』という曲の中にこんな歌詞があります。
大丈夫だよ~ 大丈夫だよ~
20年後の君は とてもとても幸せだから
ほら、僕の顔を見てごらん♪