希望は絶望の隣にある

日本講演新聞・魂の編集長の「ちょっといい話」第十七回
『希望は絶望の隣にある』
水谷もりひと

日本講演新聞は、全国各地で開催される講演会を取材して、心にしみたいい話や感動した話などを三、四回ほどの連載記事にして発行している週刊紙です。だから新聞といいながら、事件や事故、政治や経済などのニュースが載っていないのが特徴です。
さて、今まで二十八年間、約千五百人の講演者の話をまとめてきましたが、そんな中で衝撃的で、忘れることのできない話がいくつかあり、その一つを紹介します。

二年前、盲目のカウンセラー・西亀真さん(当時六〇)から聴いたお話です。西亀さんは三十代半ばで目の難病を患い、四六歳の時、完全に光を失いました。盲学校に入学し、点字を学ぶのですが、指先に触れる凸点(とつてん)の感触がどうしても文字に思えず、「自分に点字は無理だ!」と匙を投げてしまいました。その時、盲学校の先生が言った言葉で西亀さんにスイッチが入りました。それはこんな言葉でした。
「でもね、西亀さん、世の中には両目の視力だけでなく両手も失った人がいて、その人は唇で点字を学ばれたそうですよ」
その人の名前は藤野高明さんと言いました。西亀さんは藤野さんに連絡を取り、会いに行きました。その話がとても衝撃的でした。
藤野さんは昭和十三年福岡県生まれ。小学二年生の時に終戦を迎えました。
ある日、近所に落ちていた銀色の筒のようなものを拾ってきて、当時五歳だった弟と遊んでいました。その筒が突然爆発したのです。不発弾でした。弟は即死。藤野さんは両目と両手首を失いました。

もう一つ失ったものがありました。教育を受ける機会です。全盲と両手首損傷の二重障がい児ということで、教育委員会は「就学免除」と通達してきたのです。事実上の「受入拒否」でした。そういう子どもを教育できる教師が学校にいなかったのです。
親御さんは藤野さんを自宅で教育しました。また将来自立した生活ができるようにと衣服の着脱、食事、洗面・トイレはもちろん、タオルを絞ったり、七輪の火を起こすことも十二歳までに完璧に自分でできるようになりました。それでも福岡盲学校は彼の就学を断り続けました。

藤野さんは十二回にも及ぶ開眼手術を受け、その度に入退院を繰り返しました。入院中、看護婦さんがよく本を読んでくれました。
十八歳の時、運命を変える一冊の本と出会いました。北条民雄の『いのちの初夜』です。それはハンセン病の診断を受け、療養施設に入所した著者が自らの体験を綴った短編小説でした。藤野さんは、自分よりもっと過酷な運命を背負いながらも世の中の不条理を本で訴えている人がいることを知りました。そしてハンセン病の患者たちが唇で点字を読み取っていることに衝撃を受けたのです。
「文字を獲得すれば盲学校に行けるかもしれない」。気の遠くなるような受験勉強が始まりました。かつて目の治療で同室に入院していた盲学校の生徒が毎日病室を訪ねて点字を教えてくれました。藤野さんは全神経を唇に集中させました。
難関は数学でした。なにせ小学2年生から教育を受けていないのです。特に分数や小数の計算が理解できませんでした。
そこに看護学校の学生だった熊本敏子さんが現れました。実習を終えた夕方6時から熊本さんは付きっきりで数学を教えました。藤野さんは、倍数や簡単な方程式、因数分解まで理解できるようになりました。
それでも福岡盲学校高等部は彼の両手首損傷を理由に受験を認めませんでした。盲学校は将来、理療(鍼・灸・マッサージ)の仕事に就かせるための学校で、藤野さんはそういう仕事に就ける可能性がないからです。
しかし、希望の光は絶望のすぐ横にありました。盲学校の教師が「大阪市立盲学校には音楽科がある。そこなら君でも行けるかもしれない」と教えてくれたのです。
藤野さんは点字で手紙を書きました。点字の返事はすぐ来ました。「できる限り最善を尽くします」と。
看護学校を卒業して正看護婦になっていた熊本さんとその友人たちが、藤野さんに受験科目の五教科を教えました。
一九五九年二月、大阪市は教師を藤野さんの病院に派遣し、前例のない出張入試を行いました。合格通知は3月4日に届きました。二十歳の藤野さんは晴れて中学部の二年生になりました。
その後も何度となく訪れた絶望と屈辱の嵐を、家族や仲間に支えられながら潜り抜けた藤野さんは、一九七三年、教員採用試験に合格し、母校・大阪市立盲学校の教諭になりました。不屈の精神と無限の可能性とは、この人のことを言うのだと思います。
西亀さんの携帯には時々八十歳を越えた藤野先生からメールが来るそうです。一体どうやってメールを打つのか西亀さんに聞いてみました。
左右どっちかの手先に、かつて指だった突起がわずかに残っていて、それでメールを打つのだそうです。その時はそれで納得したのですが、あとでふと思いました。「文字盤が見えないのにどうやって?」。今は視覚障がい者のためのアプリもちゃんとあるそうです。

(注)「みやざき中央新聞」は、2020年1月より「日本講演新聞」に名前を変更しました。