感謝神経を磨いていい出会いをいつまでも

みやざき中央新聞・魂の編集長の「ちょっといい話」第十三回

「感謝神経を磨いていい出会いをいつまでも」
水谷もりひと

ちょっと嬉しい出来事や心温まる話を、この『プチ紳士からの手紙』が届けてくれるが、読む度に、よくこんな素晴らしい出会いがあるものだと感心させられる。
私も人に優しくしてもらったり、思いやりの心で接してもらったことが数多くあるはずなのに、「最近、どんなことがありましたか?」と聞かれると、さっと出てこない。
これは「感謝神経」が鈍くなっている証拠ではないだろうか。「何かしてもらったらありがとう」と感謝することはもちろんのこと、何もなくても、たとえば、今ある健康な体や家族の存在、仕事があること、周りの自然に対して「当たり前」と思わず感謝する。さらに多少嫌なことがあったり、不運なことがあっても、そのことで何か大切なことに気付かせてもらえたと思って感謝する。
この「何かあったら」「何もなくても」「何があっても」感謝する「感謝神経」を日頃から磨いておかないと、ステキなプチ紳士・プチ淑女との出会いをいつまでも心に留めておくことはできないのではないかと思う。
では、どうやって「感謝神経」を磨くか。以前、歌人の小島ゆかりさんからこんな話を聞いた。これは「感謝神経」という感性を磨くことになるのではないかと思った。
一つは、「お月様を見上げる」である。小島さんが予備校の講師をしていた頃、成績は上位なのに、授業に出てこない。出てきても聴講する態度がとても悪い青年がいた。
ある日、三者面談があった。親御さんが真剣に話している横で、彼はそっぽを向いていた。その態度が許せなく、小島さんは後で彼に手紙を送った。「どんなに頭が良くても、そんなに心を閉ざしていたら幸せになれないよ」と。
ひと月ほど経った頃、彼は小島さんのところにやってきてこう言った。「先生、俺、やっぱりちゃんと勉強するよ」「えっ? どうしたの?」
「この間、バイトの帰りにすごくデッカイ満月を見たんだ。あんなデッカイ満月を見たのは生まれて初めてだった。あれを見て急に心が変わったんだ」
小島さんは思った。「彼は人生に迷っていたんだ。どうしていいか分からないとき、ふと月を見上げたら、その満月の声を聞いたのではないか」と。
もう一つは、「物に語り掛ける」である。小島さんの中学2年の娘さんが、夏休みの自由研究で石の研究をした。多摩川の川原へ行って、二十個ほど石を採集してきた。図書館で一つ一つ石の名前を調べ、ラベルを貼って標本にした。
ところが、夏休みが終わり、標本が返ってくると、娘さんはラベルが貼られた石をそのままごみ箱に捨てた。それを見た小島さんは「あんなに一生懸命石のことを調べていたのに」と悲しい気持ちになった。
小島さんは、娘さんに「これ、多摩川に返しに行かない?」と誘った。娘さんはついてきた。行く道すがら「この石にはね、雲母が混じっていたんだよ」「ここに小さい葉っぱの化石があるんだよ」を自慢げに話してくれた。
多摩川に着き、しばらく時間を過ごした後、小島さんが「さぁ帰ろうか」と言うと、娘さんは川原を振り返り、戻した石に向かってこう言った。「さよなら~」
小島さんは胸が熱くなった。ついこの間までごみ同然だった石に、愛情のようなものが芽生えている。「きっと娘は石と話ができたのだ」と小島さんは思った。
私たちがどんなに落ち込んでいようと、心が荒んでいようと、自然や身の回りの物は変わらずに私たちと共にいる。お天道様は眩し過ぎるけど、お月様なら見上げるといつでも優しい光を放っている。物もそうだ。大切に扱うといつまでも寄り添ってくれる。
「耳を澄ませて声を聞く」、こんな感性を磨いていたら、きっといろんな出会いが輝いてくるに違いない。