「宗次德次さんの「寄付」の実践から人生を学ぶ」 志賀内泰弘

「宗次德次さんの「寄付」の実践から人生を学ぶ」

志賀内泰弘

少し前の事、とある出版社の知己から電話をもらった。よもやま話の後で、
「以前、定期購読してもらっていたうちの雑誌だけど、もう一度購読してもらえないだろうか」
と頼まれた。
実は、再講読しようかどうかと、ずっと迷っていたところだった。ところが、パッと自分の口から出た言葉は、「もう勉強は止めたんです。ごめんなさい」だった。自分でも驚いたのだが、こんな言葉がスーッと続いた。 「講演会や本が好きでずいぶん勉強して来ましたが、寄付をする金額が増えて来て、家計を圧迫するようになったんです。懐には限りがあるので、いろいろ考えて勉強する分のお金を寄付に回すことにしたんです」
いかにも言い訳っぽいが、本当のことだった。

30年以上にわたって心の師と仰いでいるのが、カレーライスのココイチ創業者・宗次德二さんだ。宗次さんは、街角でホームレスを見掛けると、コンビニで熱いお茶とオニギリを買って、そのレジ袋の中にそっと二千円を入れて一緒に手渡すことを続けておられる。それは序の口。様々な個人や団体に寄付をされている。人は言う。「それはあなたがお金持ちだからできるのだ」と。宗次さんの新作日めくりカレンダー「独断と偏見 宗次流寄付の達人」の十二日のところに、こんな言葉が書かれてある。

「「ゆとりができたら、私も寄付します」と言う人は絶対にしない」

思わず苦笑いして頷いてしまった。そういう人を何人も知っているからだ。

話は戻る。還暦を過ぎて今さらなのだが、寄付をすることはどんな講演を聴いたり本を読んだりするよりも、ずっと多くの人生勉強になっていたことに気付かされる。例えば、友人が代表をするNPOに寄付を頼まれた時のこと。1口5千円だという。それを2口にするか5口にするか。ケチな奴だと思われなくなくてするのか、それとも本当に困っている人たちのことを思い浮かべてするのか。自分に問い質す絶好の機会になる。

ある時、困っている人と知り合いになった。そこで考える。頼まれたら施すのか、それともこちらから頼んで施させてもらうのか。似たような例では、街頭募金がある。子供たちが、「おねがいしま~す」と連呼する中を素通りするのか、それともすかさず財布を取り出して歩み寄るのか。つまり自分と言う人間を試されているのだ。

こんなこともあった。命の危険に脅かされている人がいた。少しばかり大きな金額を援助し、仲間にもSОSを送ってみんなで支えた。・・・しかし結果、感謝の言葉もなく行方を眩ましてしまった。つい「あんなにしてやったのに」と愚痴になる。でも、仲間は言う。「命を救えただけでいいじゃない。無駄ではなかったよ」と。ギブアンドギブの精神に反していたことに反省。見返りを期待しての善意ではなかったはずなのだから。

宗次さんは言う。
「「『俺さえ良ければいい』というという人は、「寄付」なんてしません。そういう「エゴ」の強い人は、人生も上手くゆくはずがない。何か見返り、打算があって「寄付」するのも同じです。偽善でも駄目ですね。本当に困った人を見て、身を削ってでも「助けたい」と思う純粋な気持ちがある人の人生が上手くゆくのです。『みんなのおかげで、今の自分がある』という感謝の気持ちが大切。「寄付」というのは、その感謝の気持ちの表れなんですね」

実に重い言葉だ。誰かのため、世のためにと思う気持ちすら、上から目線の奢りなのかもしれない。何事にも感謝の気持ちで生きられるようになるため、どんな逆境をも乗れ越えられるようになるため、つまり、結局は、自分の益のために寄付をするのだと気付かされる。右往左往しながらではあるが。