第6回「見えなかった彼の優しい気持ち」

熱血先生 今日も走る!!!
「子は宝です」
中野敏治
第6回 「見えなかった彼の優しい気持ち」

中学校に入学したころの生徒は、みんな中学校生活に意欲を持っています。年度初めの自己紹介では「サッカー部に入って、サッカーを頑張ります」「英語の勉強を頑張ります」など、具体的な目標を発表する生徒が多くいます。
5月の連休を過ぎた頃から、生徒達は中学校生活への緊張が緩み、自分らしさが出てきます。これはとても良いことなのですが、そんな生活の中で、ある生徒が問題を多く起こすようになりました。
彼は、クラスの生徒と些細なことでけんかをしたり、授業に集中できず、近くの友だちに話しかけたりしていました。学校を休むことはなかったのですが、遅刻をする回数が多くなり、忘れ物も目立ち始めたのです。
クラスの生徒たちも彼のことを心配するようになりました。彼を相談室に呼んで、何度か話をしましたが、彼の行動はなかなか変わりませんでした。彼の目に余る行動を保護者に伝えてようと彼の家に行き、母親と話をしました。母親はいつも申し訳なさそうに頭を下げるばかりです。
ある日、彼の家に行った時のことです。玄関からいつものように母親が出てきましたが、いつもの母親とは違い、顔が赤く、お酒のにおいがするのです。母親もそのことを気にしてか、私から離れていました。まだ外は明るい時間でした。
数日後、彼がまた問題を起こしました。彼を相談室に呼び、ゆっくりと話をしようとしたときです。彼は大きな声で、怒鳴るように「先生、頼むから家に来ないでくれ!先生が来るとおっかー(母親)が荒れるんだ。だから家に来ないでくれ!」というと、相談室のドアを思いっきり開け、出て行ったのです。慌てて彼を追い、相談室を出ると、そこには2人のクラスの生徒が心配そうな顔をして立っていました。
彼の家に行くと、母親は明るいうちからまたお酒を飲んでいました。母親と一緒に彼のことを考えてようとしたのですが、母親は話ができないほど酔っていたのです。
彼について気になったのは、行動だけではありませんでした。ワイシャツをたびたび着てこないのです。体操服で登校する日もありました。ワイシャツを着てきた日は、なぜかとてもワイシャツが汚れているのです。そのうち、ワイシャツを着てくることもなくなり、毎日体操服で登校をするようになりました。彼を呼び、ちゃんとワイシャツを着てくるようにと話をしても、彼は無視をするように体操服で登校してくるのです。「お母さんに服装のことを相談するよ」と彼に伝えると、彼は「家には来るなよ!」と強い口調で言うのです。
数日後です。以前、相談室の前に立っていた二人の生徒が職員室に来ました。「先生、話したいことがあるんだ」と私を廊下に呼び出したのです。そして、周りを気にしながら小さな声で「先生、A君はワイシャツを持ってないんだよ。この前までは1枚あったらしいけど、それも着られなくなったみたいだよ」と言うのです。もう一人の生徒が「先生、知ってる?A君のお母さん、アル中だってこと。A君が小学校のときかららしいよ。病院にも行っていたらしいよ。みんな黙っていたけど、先生には言っておいたほうがいいと思って。内緒だよ。絶対にね」と言った後、「先生、A君はいいやつだよ」と付け足すように言うのです。
ドキッとしました。彼はワイシャツを着てこないのではなく、ワイシャツがなかったのです。そして、母親は私が訪ねるときはお酒を我慢していたのですが、ある日から、我慢ができなくなり、飲み始めていたのです。彼はそんな母親に私を会わせたくなかったのです。
その日、彼には言わず彼の家に行きました。玄関に出てきた母親にあいさつもしないで、頭を下げました。「お母さん、お願いがあります。彼にワイシャツを買ってあげてください。お願いです。1枚でいいです。彼にワイシャツを」と、言葉に詰まりながら、必死でお願いをしました。
お酒のにおいがしてきました。母親から言葉が返ってきませんでした。そっと頭を持ち上げると、母親はお酒に酔って赤い顔をしていました。母親の赤い頬に涙が流れていました。「先生、ごめんなさい。お酒を買ってしまって…。だめね、私って。息子と二人暮らしなのにね…、ごめんなさい」と酔いながらも言葉を返してくれました。
翌日、廊下ですれちがった彼が小さな声で「先生、ありがとう」と言うのです。驚いて「え?」と言葉を返すと、「昨日、先生を見た」と言いながら、友だちと一緒に走って教室へ行ってしまいました。その友達は、先日の2人でした。2人は教室に入るとき、私のほうを振り返り、Vサインをしたのです。
彼の生活は急にはよくなりませんでしたが、少しずつ変わり始めました。
(子は宝です)