胸の傷
「胸の傷」
志賀内泰弘
愛知県瀬戸市の中学の先生をしている渡辺康雄さんから、こんなお話が届きました。現在は、市の教育委員会に勤めておられます。
私も大病をしたことがあり、とても他人事とは思えず心がキュ~と締め付けられるような思いがしました。
今、辛い思いをしている人。
今、身近に辛い思いをしている友達や家族が居る人には勇気づけられるお話です。
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「胸の縦隔(じゅうかく)というところに腫瘍があります…。」
30歳になってはじめて人間ドッグを受けたとき、レントゲン写真を見ながら担当の医師に告げられた言葉です。
あまりにも唐突で、あまりにもあっけらかんと言われるので、信じられないと思うだけではなく、そんな重要なことは自分に直接言うはずが無い。仮に百歩譲ってそうだとしてもまず親族に話をするはずだ。だから、ウソだ! どっきりカメラだ。どこにカメラがあるんだ。あの花の後ろか? それともあのパソコンの中にカメラが仕組まれているのか…。そんなことを考えて、「どっきりカメラ大成功!」という看板を持ったおじさんが出てくることばかりを考えていた。ところが医師からは「○○病院に手術の上手なお医者さんがいる。だから紹介状を書くから…。」と真剣な表情でペンを走らせている。半年前にはフルマラソンも走っているし、特に体調が悪い訳でもない。ウソでしょ。絶対にウソだ。その部屋を出る瞬間に看板を持ったおじさんが出てくるかもしれない。病院を出たら後ろから追いかけてくるかもしれない。あの電柱を越えて誰も声をかけて来なかったら現実として受け止めよう。そんなことを考えながら病院をあとにしたが、残念ながら誰も自分に声をかけてくれる人はいなかった。
数日後、紹介状を持って病院へ行くと、担当の医者から言われた病名は「縦隔腫瘍」で、すぐに入院を指示された。その後、さまざまな検査を受け、2週間後には手術台の上に乗っていた。
手術を終え、意識を取り戻した自分の体にはいろいろなところからパイプが出ていた…。そして、胸には15cmぐらいの手術跡があった。ほんの数ヶ月前までは予測も出来ない状態である。
その後、胸の傷口を見ながら、「これが一生残るんだなぁ」って思いながらため息をついたら、同室のAさんが「いいなぁ。うらやましいです。」って声をかけてきた。Aさんは23歳で自分と同じ「縦隔腫瘍」という病気を患っている。しかし、Aさんは発見が遅く、いろいろなところに転移をしてしまったので、手術が出来る体になるために抗がん治療を続けていた。「渡辺さんが治ったら、自分も元気になれるような気がするんです。だから、渡辺さんにはどうしても元気になってほしいんです。」って。
しかし、残念ながらAさんは自分と出会って、4ヶ月後に天国へ旅立って行きました。
自分の胸にできた手術跡は自分の「悩み」になると思っていた。でも、そんな「悩み」を、「うらやましい」と感じる人がいた。生きている限り悩みは生まれてくる。しかし、その人にとっての悩みも他の人から見たら、体験したい、味わいたい悩みなのかもしれない。子育てに悩む人もいれば、子供が欲しくて悩んでいる人もいる。仕事上の悩みを、仕事に就けなくて困っている人に相談はできない。
胸の手術跡はずいぶん目立たなくなった。人間はいいことも悪いことも忘れてしまう。でも、自分の手術跡を見て「うらやましい」と声をかけてくれたAさんの思いは、ずっとつないでいかなければいけないと思っている。
そのためにも胸の傷はずっと残ってほしいと願っている。
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人は、生死に関わる病気や事故に遭うと、その後の人生が変わると言います。渡辺さんと話していると、いつも人を包み込むような優しさを感じます。また、公務員とは思えない、幅広い人脈に驚かされるばかりでなく、弾けんばかりのエネルギーが放出されているのがわかります。
間違いなく、ご病気から「大きなもの」を得られたからに違いないと思っています。