エッセイ⑦ 「フィリピンから連れてきた青年」

〇ご縁があり、山本孝弘さんのエッセイを一冊の本に編むお手伝いをさせていただき
ました。「明日を笑顔に 晴れた日に木陰で読むエッセイ集」(JDC)です。
その山本さんにお願いし、「ちょっといい話」
を書きおろしていただきました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「フィリピンから連れてきた青年」
日本講演新聞中部支局長・山本孝弘

働き手を探しにフィリピンへ
あいつが日本に来て3年になる。
私が会社員だった頃の話である。小さな会社ではあったが私は建設系の会社で営業課長を任されていた。
今はどの業界にも言えることかも知れないが、ご多分に漏れず建設業界も深刻な人手不足である。あまつさえ労働者の高齢化の問題もある。
そこで今多くの会社で取り入れられているのが外国人技能実習制度だ。発展途上国の若者を数年間日本の企業で受け入れ、産業技術を学んだ後に母国の発展に寄与してもらう制度である。あくまで研修だが、実際は日本の労働力不足を解消する結果になっているのもまた事実だ。
興味を持った私は実際に外国人研修生を採用している企業の担当者に話を聞かせてもらった。「とにかく最初は苦労の連続だが必ず戦力になる」と言う。そして私はある日企画書を持って社長室に行った。人手不足に悩む自社でも外国人研修生を受け入れようと考えたのだ。小さい会社としては大きな事案なので即決断ということはなかったが、とりあえず私が現地に赴くことになった。現地法人の信頼性や研修生希望者の実態を視察に行くためである。研修生の監理組合の勧めで視察地はフィリピンに決まった。

スモーキーマウンテンを目の当たりにして
現地法人の社長の話を聞き、また日本行きが決まった研修生だけが集まる日本語学校も視察した。国の雰囲気もよく分かった。研修制度の大枠が見えてきた研修の最終日、午後の時間に少し余裕ができた。
「射撃体験場かカジノかどちらに行きたいですか」と現地法人のフィリピン人社員が私に聞いた。どちらにも興味がなかった私は「スモーキーマウンテンに連れて行ってほしい」と頼んだ。それはマニラ郊外にあるゴミ集積所の俗称である。集められたゴミの山から売れるものを一日中探し、わずかな日銭を稼ぐ人々が暮らすスラム街だ。彼は少し驚いたが、車から出ないことを条件に連れて行ってくれた。
明らかにアル中になっていると思われる小学生くらいの男の子を車中から見た時はやり切れなさで苦しくなった。一人で歩いている中学生くらいの男の子を見かけた。声を掛けてみたくなり、何とかお願いして車から降ろしてもらった。ジョーイと名乗ったその少年は「今一番したいことは学校に行くことだ」と言って微笑んだ。その笑顔がわずかな救いに感じた。
ホテルに帰る途中、マニラの街なかで車は渋滞に巻き込まれた。動かない車の窓がふいにノックされた。
「花飾りを買って」と7歳くらいの少女が言った。相場より高いお金を払うと彼女は微笑んで雨の中を駆けていった。私はマニラの街を覆った分厚い雨雲を見上げながら、「彼女たちの笑顔がいつか心からの笑顔になる日が来ますように」と願い、雲の向こうに隠れている明るい太陽を想像した。

研修生候補の面接で
そして3ヶ月後、今度は採用する研修生を面接するために私は再びマニラを訪れた。
こちらの希望に合う該当者7名が面接会場に来ていた。全員が日本で働きたいと切に願う事情を持っていた。そんな事情を聞けば聞くほど全員連れて帰りたい気持ちになる。でも採用するのは一人だけだ。
他人の人生を大きく左右する重圧から逃げ出したくなったが、私は逡巡を重ねた末に1歳の娘を持つ23歳のシングルファーザーの青年を採用することに決めた。
面接終了後に現地法人の社長が彼を部屋に呼び、採用の旨を告げた。彼と彼の家族の未来が大きく変わった瞬間だった。
「幼い娘と弟たちのために日本で頑張ります」
と彼は英語で言った。部屋を出る前、彼はこちらに向き直って丁寧に頭を下げた。
その後入管に出す書類を整理し部屋を出ると採用された彼が私を待っていた。
「よろしくお願いします」
と今度はかなり拙い日本語を使いながら深く頭を下げられた。彼の目からは涙が溢れていた。こちらも胸が熱くなったが、ぐっと堪え平静を装った。

「全部日本語で話してください」
そして半年後の初夏。彼が日本にやってきた。
当然最初から戦力になる訳ではなく、彼はとにかく現場で足を引っ張った。車の運転もさせられない。そして何より言葉が通じない。現場での彼の風当たりは強くなった。「営業は連れてくるだけで一緒に仕事をしないからいいよな」。現場からの批判の矛先は私にも向かってきた。
日が経つに連れて彼は元気がなくなっていった。現場の声は何とも思わなかったが、元気がなくなっていく彼の姿を見るのはやるせない。私は仕事帰りにフィリピン料理レストランに彼を連れて行き励ました。「日本語なんて嫌でも話せるようになる。今だって来た時よりかなり話せるじゃないか」とゆっくりと英語で諭した。肝心な時は英語で話すのがお互いの暗黙のルールだった。「そう思うならこれからは全部日本語で話してください」と彼は笑った。その時、こいつなら大丈夫だと私は確信した。
そして2年後。「あいつがいないと現場が回らない」と日本人社員から言われるようになった。現場で会う他社の職人にもかわいがられるようになった。
ある日の朝礼後、職人たちが現場に向かう準備をしている時に、そのうちの一人が彼に言った。
「SNS見たぞ。おまえはハッピが似合うなあ」
何を言っているのだろうと思い、私はパソコン画面を切り替え彼のSNSを覗いた。私の知らないところで彼は下請けの作業員の誘いで地域のお祭りに参加していたのだ。法被を着て神輿を担いでいる彼の楽しそうな写真を見た時は、私はまるで彼の父親にでもなったかのように感無量になった。目頭が熱くなった。

「日本に連れてきてくれてありがとう」
そこからさらに1年後のこと。私は学校で子どもたちに講演をする仕事が天命ではないかと思い、会社を辞めることにした。彼にはなかなか言えなかった。
彼がそれを知った日、現場から戻ると真っ先に私の机にやってきてこう言った。
「仕事はだんだん覚えてきました。でもあなたは仕事以外の大事なことを教えてくれます。私の話も聞いてくれます。やめないでください・・・」
あの時と同じように私は感情をぐっと抑え微笑んだ。私が辞めることは本当だと彼は理解したようだった。そして今度は静かに英語で言った。
「娘は5歳になりました。弟たちも学校に通っています。僕を日本に連れてきてくれてありがとうございました」
そう言って上を向いた彼の目から涙がこぼれた。
来た頃とは比べられないくらい厚くなった彼の胸板。汚れた作業着。娘たちのために異国で頑張っているこの男を私は尊敬する。
息子ほど年の離れたあいつが本当に息子に見えてきた。堪えきれず私の頬にも涙が流れ落ちた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(志賀内)
国籍、性別、年齢、思想、宗教・・・その環境や生い立ちにどんなに違いがあっても、頑張っている人の姿は美しい!シンングルファザーの「あいつ」にエールを送ります。
(ご案内)
山本孝弘さんのエッセイが本になりました!
心揺るがす「いい話」がいっぱいです。
「明日を笑顔に 晴れた日に木陰で読むエッセイ集」(JDC)

(志賀内より)
山本孝弘さんへの講演や執筆の依頼先はこちらまでお願いします。
yamamoto@miya-chu.jp