エッセイ① 「おせっかい」という愛の遺伝子

日本講演新聞中部支局長の山本孝弘さんにお願いし、「ちょっといい話」を書きおろ
していただきました。
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「おせっかい」という愛の遺伝子
山本孝弘

ACジャパンのこんなラジオCMがあった。二人の若い女性の会話である。
女性A「昨日お土産にな、大きいつづらと小さいつづらのどっちがええかって聞かれてん」
女性B「ふ~ん、それでどうしたん?」
女性A「私は、何が入ってるんですかって聞いたんよ」
女性B「そういうの聞いていいん?」
女性A「そしたら小さいつづらには親切な何かで、大きいつづらにはおせっかいな何かが入ってるって言うんよ」
女性B「えっ、おせっかいな何かは要らんな」
女性A「いらんやろ。でもな、よう考えたら親切なつもりでも相手にとってはおせっかいなこともあるやん」
女性B「あるある!」
女性A「つまりな、両方とも私にとってはおせっかいという可能性もある訳やんか」
女性B「あるなあ…」
女性阿A「もう分からへんわと思って親切な何かをもらって来てん」
女性B「ええ! 何やったん?」
女性A「持ってきたから今から一緒に開けてみよか。ほないくで。 せ~の!」
ここでつづらが開けられる音が入り、中身を見た二人が言う。
女性A「ああ、おせっかいや・・・」
女性B「私には親切やで!」
親切とおせっかいは紙一重だということを表した面白いCMだ。そして最後のナレーションはこう締められていた。
「親切とおせっかいの境目はあいまいで難しい。おせっかいかもしれませんが、これからも受け取ってくれる人を信じて!」
つづらの中身が何だったかはわからないが、学生時代東京で一人暮らしをしていた僕の元へ送られてきた母からの段ボールの中身はよく覚えている。定期的に米を送ってもらっていた。当時の僕はそれを当然のことだと思っていたのだろうか、感謝の気持ちがなかったように思う。それどころか、毎回米と一緒に入っている多くのインスタント食品にうんざりしていた。ついに僕は電話をして文句を言った。あまりいろいろ送らないでほしいと。
母はその時、怒るでもなく「それは悪いことをしたねぇ」と言った。
僕は今あの頃の母より年上になった。その時の母の気持ちを思うと何とも言えない申し訳なさで苦しくなる。
翌月から段ボールの中身は米だけになった。それが妙に淋しかったのを覚えている。でも母は懲りずにまたその翌月から段ボールにいろいろ詰めてきた。
母は人前に出るのが苦手で控えめな戦中生まれの女性である。それ故、積極的に進み出て他人に親切にすることはないのだが、僕が子どもの頃、母のさりげない親切をよく目にした。
買い物に行った時に倒れた自転車を見つけるとよく起こしていた。ゴミ集積場で袋が破れているものがあると作業員が回収しやすいように家からごみ袋を持ってきて綺麗にしていることもあった。
あの頃家では地元の地方新聞を購読していたが、時々郵便受けに入れ忘れられることがあった。その度に母は販売店に電話をした。慌ててバイクで届けに来て平謝りする配達員に対し、母は配達員以上に頭を下げていた。
小学生だったある夜、ドラゴンズが劇的な逆転勝ちをした。翌朝僕は新聞を楽しみにしていたのだがまた届けられておらず、母にすぐ電話をしてくれるように頼んだ。だがその日の母は適当に頷くだけでなかなか電話をしてくれない。学校に行く時間が来てしまうので僕が再度強くお願いした時に母からこう言われた。
「今日は我慢しない? こんなどしゃ降りの日にまた届けに来てもらうのは申し訳ないよ」
そういう考え方があることを知り僕は驚いた。僕は小学生でありながら「お金を払っているこちらが偉い」と信じ込んでいた。損得抜きに相手を思いやる母の気持ちに従い、僕はその日の新聞を読むのを諦めた。だが学校が終わり家に帰ると新聞があった。僕がかわいそうだと思った母は販売店まで新聞をもらいに行ったそうだ。母は運転免許を持っていない。大雨の中、傘を差して行ってくれたのだった。
「一般社団法人おせっかい協会」というものがある。会長の高橋恵さんは母と同い年である。僕は彼女を豊橋に招き講演会を主催したこともある。
協会設立の趣旨はこうだ。
「おせっかいは優しさの基本であると考え、おせっかいで助け合いの心を育み、見返りを求めない利他の精神に溢れかえる優しい国づくりを目指す」
恵さんがおせっかいの大切さを知ったのは子どもの時だ。ある一通の「おせっかい」な差出人不明の手紙が恵さんの命を守った。
恵さんは三姉妹の次女。子どもの頃のある日、家に手紙が届いた。父の戦死を知らせる手紙だった。恵さんのお母さんがまだ26歳の時だった。お母さんは涙を流しながら子どもたちを抱きしめた。
戦争が終わった後の生活も苦しく、近所では一家心中する家が何軒かあった。心も体も疲れ果てたお母さんは恵さん姉妹にこう言った。
「みんなでお父ちゃんに会いにいこうか…」
次の日、玄関の戸に一通の手紙が挟まれていた。
「あなたには3つの太陽があるじゃないですか。どうか死ぬことを考えずに生きてください」
近頃の恵さんのお母さんの様子を見て何かを感じ取った近所の方からの「おせっかい」な手紙だった。母は三姉妹を抱きしめ泣き崩れた。
マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と言った。おせっかいの反対も無関心だ。ならばやはりおせっかいは愛なのかもしれない。
僕も愛のあるおせっかいで優しい世の中を作る貢献をしようと思う。
年が明けると80歳になる僕の母は相変わらずおせっかいを焼いている。
僕の体にはその母から受け継がれた血が流れている。
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(志賀内)
もう20年近くも前のことです。
「心の師」が自ら命を絶ちました。その直前に、師の妙な行動に目が付きました。「おかしいな」と思いはしたものの、かなり年長の尊敬する人だったので、「大丈夫だろう、私の他にも頼れる人が大勢いるはず。おせっかいをしたら、失礼になる」と、連絡することも見合わせました。
そして、しばらしくて・・・訃報が届いたのでした。
後悔しました。「なぜ、あの時、電話の一本もかけられなかったのか?」「おせっかいするべきだった」「そうすれば・・・充分に役立てなくても、死ぬまでに至らなかったかもしれない」
その時です。「おせっかい」だと思われても、怒られたら謝ればいい。そう腹をくくればいいのだと思いました。以来、「これは親切なんだ」と信じて、「おせっかい」をするよう心掛るようになりました。

さて、その「おせっかい」で、志賀内は人生が変わったことがあります。つい最近、「心の師」の一人であるS先生が病気で亡くなられたことを、奥様からの喪中のハガキで知りました。遠方ということに加え、コロナ禍ということもあり家族葬が多く、亡くなられたことを存じ上げなかったのです。
ショックでした。最初にお目にかかったのは、30年ほど前のことです。勉強会に講演に来て下さったのです。それから、お互いにニュースレターのやり取りを続け、10年ほどが経ったある日のことでした。「名古屋に行くので会いましょう」という電話がかかって来ました。名古屋駅のホテルのラウンジで会うなり、開口一番。
「こんなことやっててはあかん」
とたしなめられたのです。「こんなこと」とは何か。 それまで作った俳句をまとめて、処女句集を発刊したことでした。自費出版です。
「自費出版はあかんでぇ。ちゃんと、バーコードが付いた本屋さんで売ってる本やないとあかん。出版社の社長を紹介したるさかい・・・」
と言い、ラウンジのレジ脇のところにある公衆電話から、電話をかけられました(まだ、携帯電話が普及する前のことです)。電話が先方に繋がると、少し話した後、
「代わる」
と言い、受話器を私に差し出されました。相手は、大阪の出版社「JDC」のあんがいおまる社長。相田みつをさんを世にデビューさせたことで知られる人です。その場で、出版が決まりました。わずか5分ほどの出来事でした。
「いい話 心に一滴たちまちさわやか」
この本が、志賀内のデビュー作になりました。あの「おせっかい」がなかったら、私の人生はまったく違っていたものになっていたでしょう。どこの馬の骨ともわからない、実績ゼロのしがないサラリーマン。そんな人間が本を出せたという理由は一つ。S先生の「信用」です。その「信用」をバックに、出版を引き受けて下さったのです。
私はその「おせっかい」に報いるため、受けた「おせっかい」を「恩送り」するよう心掛けて生きています。
(ご案内)
山本孝弘さんのエッセイが好評で重版になりました!
心揺るがす「いい話」がいっぱいです。
「明日を笑顔に 晴れた日に木陰で読むエッセイ集」(JDC)

(志賀内より)
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yamamoto@miya-chu.jp