言えなかった「ありがとう」 (2012/4/22)

 一宮市の森陽子さん(61)が小学一年のとき、母親が再婚した。「お父さんは長いことアメリカに行っていて、今度帰って来たんだよ。だから一緒に住めるようになったの」と言い、新しい家に連れて行かれた。森さんは、新しい父親に懐けず母親を困らせた。幼いながら、実の父親ではないことを感じ取っていたからかもしれない。しかし、それ以上の理由があった。義父は外国航路商船の船員で、1年に40日しか家にいないのだ。懐けないのも仕方がなかった。

 高校一年のとき、森さんは戸籍謄本を見て実の父親でないことを知った。すると、急に感謝の気持ちが湧いてきたという。「自分の子でもないのに育ててくれてありがとう」。何度も何度も言おうと思ったが、言いそびれて時が過ぎた。

 高校三年の夏のことだった。休暇を終えて再び十カ月の航海に出掛けるという朝、「今度こそ言おう」と心に決めていた。ところが、その日に限って寝坊してしまった。起きると両親の姿はなかった。慌てて顔も洗わずに外へ飛び出す。母親が父親のトランクを自転車の荷台に積んで、手で押さえながら押して行くのが十メートルほど先に見えた。でも、走り寄って「ありがとう」と言うことができない。それに気付いた両親が手招きするが、涙があふれてきて追いつくことができない。そのまま父親は駅からタクシーに乗って旅立ってしまった。

 十カ月後に帰国した時、あらためて口にしようとしたら「言わんでいい」と言葉をさえぎられた。その後も、何度も機会はあったのに言えなかった。

 森さんは二十歳で結婚した。婚礼の前の晩、手をついてあいさつしようとすると「何も言わんでいいぞ、早く寝ろ」と逃げるようにして拒まれた。照れがあったのだろう。その父親が亡くなって32年になる。森さんは言う。「心では分かり合っていたと思いますが、とうとう言葉に出して言えなかったことを後悔しています。私が天国に行ったら、一番に『育ててくれてありがとう』と言って抱き締めたいです」