ロシナンテス・川原尚行さんのこと

 友人から、
 「志賀内さんに、ぜひ引き合わせたい人がいる」
と言われ、川原尚行さんにお目にかかりました。
 たしか2010年頃のことだったと思います。

 

 川原さんは九州大学・医学部を卒業し、大学病院でお医者さんをしていました。ある日のこと、校内掲示板の一枚の貼り紙に目が留まります。タンザニアの日本大使館の医務官を、外務省が募集しているという内容でした。彼は、「一度、外国へ行ってみたい」という単純な動機から応募します。

 その時、32歳。奥さんと5歳、3歳の子供を連れて出掛けました。最初は1年間という契約でしたが、現地の医療に没頭し外務省に籍を移します。その後一年間、ロンドンで熱帯病について学び、2002年スーダンに赴任しました。川原さんはそこで、大きな壁にはばまれます。

 

 地元の病院の先生や、WHOの職員とスーダンの各地を視察して回り、遅れた医療の現実に唖然としました。マラリアや腸チフスに罹っても病院に行くことができない人たち。ハエが媒介して寄生虫が内臓に広がり、腹部がスイカのように腫れ上がった子供がいて(リーシュマニア 症)、診察室の前に患者さんの長い列ができていました。「なんとかしたい」と思いました。ところが・・・。

 川原さんもスーダンの人たちの診療をしようとしたら、大使館からストップの声がかかったのです。

 「あなたは医者である前に国家公務員です。国が政策として援助しないと決めている国で、あなたがもし勝手なことをしたとすると、スーダン政府は『日本はスーダンに対して援助を再開したのだ』と誤解されてしまう」

というのです。外務省医務官とは、そもそも大使館員やその家族と、その国に滞在する日本人を診察するのが仕事です。タンザニアでは、時と場合によっては現地の人たちも診てきました。でも、当時のスーダンはテロ支援国家と指定され、日本は以前行っていたODA(政府開発援助)を停止していました。川原さんは、外務省の立場を考えると、「もっともなことだ」とは思いました。しかし、心の奥底では腑に落ちないものがありました。

 

 視察から戻り、大使館で日本人の患者さんを診察する日常が始まりました。仕事を終えて、いつものように家に帰ると、生まれたばかりの末娘も含めた三人の子供が笑顔で迎えてくれます。食事をしながら、奥さんと会話し、いつものように柔らかなベッドで眠りにつきます。そしてまた、大使館へ。

 でも、瞼の裏に現地の患者さんの情景が焼き付いて離れませんでした。胸が締め付けられて苦しい。自分に問いかけました。

 「おい、己はこの現実をただ見過ごすだけか・・・。そんなんでいいんか、おまえ!」

 本来、やるべきことがあるんじゃないか?それに目をつむって、また別の国に赴任していくのか?いや、でも、家族がいる。子供も三人。医務官を辞めたら家族が路頭に迷ってしまう。

その時、奥さんは背中を押してくれました。

 「潮時だから、子供たちは日本に連れて帰るね。私が働いて生活費を稼ぐから」

 申し訳ない気持ちでいっぱい。でも何よりも嬉しかった。その一言で川原さんは解き放たれ、外務省を辞めてしまったのです。

 大使館時代には年収はそれなりにありました。それが、一気に無収入になりました。でも、現地の子供たちを診てあげることができるようになったのです。

 川原さんの口からこの話を聞いた時、思わず「おバカだなぁ」と思いました(失礼)。安定した高収入と肩書を捨てたのです。でも、次の瞬間、仏典「雑阿含経」に出てくるというこんなお話を思い出しました。

 

 ある男には四人の妻がいました。男は、ある時、遠くへ旅することになりました。そこで四人の妻に同行してくれるようにと頼んだといいます。ところが、第一夫人は、即断でその依頼をはねつけました。男は、たいへん第一夫人を愛していたので悲しくなりました。常に寝食を共にしていたのに。そこで男は、第二夫人に同行を求めました。しかし、彼女にも断られてしまいました。ショックでした。あんなに愛していたのに。次に第三夫人に頼みます。彼女に対しては、ときどき思い出しては愛する程度だったのに、こう答えてくれました。

 「村はずれまで送ります」

 仕方がないので、第四夫人に頼みました。今まで、彼女は男に懸命に遣えてきましたが、男の方が見向きもしませんでした。にもかかわらず、その第四夫人は、

 「喜んでお供します」

と言ってくれたのです。男は、ただの旅に出ようとしているのではありませんでした。死出の旅でした。そうです。その四人の妻とは、生きている女性のことではありません。第一夫人とは・・・彼自身の身体(肉体)のことを指していました。第二夫人とは、お金・財産のこと。第三夫人とは、肉親、兄弟、親類、友達のこと。彼らは、野辺送りまではしてくれます。お葬式はしてくれるけど、そこまでです。でも、第四夫人は、最後まで一緒に付いて来てくれたのです。さて、第四夫人とは何か。そう、私たちの心のことです。

 

 川原さんの話に戻ります。彼は、人生で何が一番大切なことなのか、わかっている男なんですね。第四夫人、つまり「心」が大切であるということを。だから、第二夫人(お金)を手放すことができた。口では言えるでしょう。誰もがわかっているつもりでも、誰もができることではありません。

 川原さんは一旦、故郷の北九州市に戻ります。高校のラグビー部の後輩が励ましてくれました。奥さんは、家計を支えるため仕事に就いてくれました。後輩の人がスーダンへ一緒に来て働いてくれ、もう一人の後輩が日本で事務局長をしてくれました。こうして、NPO法人「ロシナンテス」が、スタートしました。

 「ロシナンテス」のロシナンテは、ドン・キホーテの乗るやせ馬のことです。その複数形でロシナンテス。一人では無力かもしれないけれど、大勢の力が集まれば何かができるかもしれないという考えから付けられた名前だそうです。

 川原さんは、東日本大震災が起きた時、たまたま東京にいました。すぐさま被災地へ駆けつけ、宮城県名取市の閖上と、岩沼市で医療支援を始めました。診療行為のみならず、ラジオ体操、子供たちと共に企画するコンサート、花見、神社の再建などにも関わりました。大勢のボランティア、地元の人たちと一緒になって復興する。東北での活動も、まさしくロシナンテスと名付けた言葉の意味を具現したものでした。

 川原さんは多くの仲間とともに、今日もスーダンで活動を続けています。

 

(参考図書)「ひろさちや仏教とっておきの話」新潮文庫

ロシナンテスのことをもっと詳しく知りたい方、ぜひ、応援したいというは、こちらからアクセスを!
https://www.rocinantes.org/about/