映画監督・今村彩子さんの来た道、行く道

その1「夢は叶えるもの」

 今村彩子さんは生まれつき耳が聞こえませんでした。そのため言葉が不自由でしたが、幼い頃から発声練習を行ってきたため、話すことができるまでになりました。しかし、補聴器をはずすと何も聞こえません。
 両親の教育方針で、一般の小学校に入学しました。一対一で話をする際は、相手の唇の動きを読んで理解します。これも訓練の賜物です。でも、早口で喋られたり、口が小さい人の言葉は読み取れないそうです。
 何より困るのは、クラスのみんなと大勢で喋る時です。みんなが笑っていても、何のことかわからない。それでも「わかったフリ」をして笑います。心の中では淋しさがいっぱい。本当は、「もう一回言って」と言いたいのですが、その場の雰囲気を壊したり、「しつこいな~」と嫌われるのが怖くて言い出せなかったといいます。

 中学校では教科ごとに先生が代わります。そのため、それぞれの先生の口に動きを読み取ることに慣れなければなりません。集中力が必要になりますが、15分が限界。特に目が疲れるそうです。それでも負けず嫌いな彼女は、勉強にスポーツにと頑張っていました。
 ある時、クラスメートからイジメに遭いました。辛くて休んでしまいました。一日休むと、次の日も学校へ行きたくなくなります。心配したお母さんは、車に乗せて無理やりにでも連れて行こうとしました。「聞こえない私の気持ちなんて誰もわかるはずがない」と、家族に対しても心を閉ざします。そして、とうとう家に引きこもってしまいました。「死にたい」とまで考えたと言います。

 そんなある日のことでした。お母さんが彩子さんに一冊の本を手渡しました。高村真理子著「アメリカ手話留学記」でした。耳の聞こえない筆者が、カリフォルニア州立大学ノースリッジ校へ留学した体験記です。この大学では「ろう」の学生が250名も在籍し、その数はアメリカで2番目に多いことで知られていました。講義はすべて手話通訳がつき、聞こえる学生と一緒に学べると書かれていました。彼女は読み終えた後も、なかなか興奮から覚めなかったそうです。そして、思ったのです。
 「ああ、アメリカに行きたい!」
と。それは「夢」の始まりでした。

 またまた、ある日のことです。お父さんがビデオを借りてきてくれました。「E.T.」です。字幕が入っているので、家族と一緒に見ることができました。それまでは、家族と一緒にテレビを見ていても、彼女だけ聞こえないので楽しくなかった。いや、悲しくなるだけでした。
 お父さんは、次々とビデオを借りて来てくれました。「ダイハード」「ターミネーター」「ロッキー」・・・。お父さんの好きなアクション映画ばかりでしたが、映画の世界に入り込んで行きました。そして、いつの間にか「エンディングロールに自分の名前が流れたらいいなあ」と考えるようになったのでした。

 「私も自分で映画を撮って、大勢の人に元気や勇気を与えたい」
 「夢」が明確化した瞬間でした。
 目標ができた彼女は、英語の猛勉強を始めます。しかし、ろう者が英語を学ぶのは極めてたいへんなのです。ろう者の第一言語は「手話」です。日本語は「第二言語」、英語は「第三言語」になります。ただでさえスムーズに使いこなせない日本語で英語を学ぶと頭が混乱すると言います。

 そんな時、高校2、3年生の時の英語の先生が教室に「TIME」や英字新聞を持って来てくれました。そして、
 「自分の興味のある記事を読んでみてください」
と言いました。彼女は、好きな映画関連のところを辞書を引きながらむさぼるように読みました。好きなことは頭に入ります。さらに、英語でノートに日記を書き始めました。それを英語の先生に渡すと、毎日、英文でコメントしてくれました。
 「文法のミスを気にするより内容が伝わっていれはいいよ」
 「彩子さん頑張って!」
 「いいよーその調子」
と励ましてくれました。
 ついに彼女は、英検2級に合格。愛知教育大学に進学します。

 そしてさらに、映画製作を学ぶためカリフォルニア州立大学ノースリッジ校に留学を果たします。
 帰国後、彼女は愛知教育大学に復学しテレビ局に就職活動をしますが全敗。
 「だったら、自分で作っちゃえ!」
と、ドキュメンタリー映画会社「Studio AYA」を設立し、数々の映画を撮ってきました。「ろう者」のサーフィン店店長を主人公にした「珈琲とエンピツ」は全国公開されました。また、この店長を起用して制作したCMは、日本民放連盟賞優秀賞、ギャラクシー賞を受賞しています。
 今村さんは、「夢をかなえる」ためには、いくつかの方法があると言います。その中の一つ。
 「紙に書いて、周りの人たちに宣言する」
こと。作品を撮る時、「○月に完成させる!」と紙に書いて貼り出すそうです。また、ブログでも公開してしまう。二つ目は、「感謝する」こと。彼女が映画監督になれたのは、まさしく大勢の人たちの「おかげ」でした。 
 「映画を通して誰もが住みやすい社会にすることが、応援してくれている人たちへの恩返しであり、未来に繋がることだと思います」と熱く語ります。

その2「社会の『壁』を壊す

 その昔、友人の結婚式の披露宴で聞いた新郎のスピーチが忘れられません。
 「もし、私が風邪をひいたりして体調が悪いとき、『お前は大丈夫か?』と妻のことを気遣える夫婦になりたいです」
と言うのです。一番親友で、そいつのことは何でも知っていると思っていました。でも、そこまで思いやりの深い奴だったとは驚きました。普通は、自分が辛い目に遭っている時、人のことなど考える余裕などないからです。自分も結婚した時、彼のようになりたいと努めてきました(もちろん、できやしませんが・・・)。

 さて、今村彩子さんの話です。自身が耳が聞こえないと、自分のことだけで精一杯になってしまいます。それが普通です。しかし、彼女は、同じ障がいを持つ人たちが、この社会で暮らしやすくするためにと、「コミョニケーション」をテーマにドキュメンタリー映画を撮り続けています。「頭が下がる」という他に言葉が見つかりません。

 そして、2011年3月11日、東日本大震災が起きました。最初に頭に浮かんだのは、
 「東北にも耳の聞こえない人たちがいる。無事だろうか。彼らにも支援の手は届いているだろうか」
ということでした。しかし、その情報はマスコミからまったく入って来ませんでした。その11日後、彼女はカメラを抱えて宮城県に入りました。「自分にできることは、災害時の「ろう者」の現状を社会に伝えることだと思ったのです。
 人づてで何人もの「ろう者」を訪ねました。そこには、想像を絶する現実が待ち受けていました。

 宮城県岩沼市に住む信子さん(72歳)は、地震が来た時、近くにあるものにしがみ付いて揺れが収まるのを待ちました。貴重品を探していた時、近所の人がやってきました。耳が聞こえないことを知ってくれていたからです。
 「津波が来るから避難しなさい」
と。もちろん身振り手振りでです。慌ててご主人と一緒に車で逃げました。もしその時、近所の人が教えてくれなかったら・・・。夫婦とも流されていたことは間違いありません。津波が引いた後、戻ってみると自宅は流されて跡形もなくなっていたそうです。信子さんは、家があった辺りを見つめながら涙を流しました。今村さんは、それをそばで見ながら、「ごめんね、ごめんね」と謝りながらカメラを回したそうです。
 そうなのです。信子さんは助かりましたが、防災無線放送や津波警報が聞こえないがために、命を落としてしまった「ろう者」が他にいたのでした。

 津波が去った後も、ろう者には苦難が続きました。避難所で生活をしていると、ときどき食料や毛布の支給の連絡があります。それは 拡声器を使って知らせられます。でも、聞こえない。そこで、「ろう者」は、いつも周りの人たちを見ていて、一緒に行動するように心掛けます。
 しかし、ちょっと疲れて眠ってしまうと、そのとたん「情報」から遮断されてしまい、食事や救援物資が手に入らなくなってしまうのです。常時、周りばかり意識しているので、ただでさえストレスの多い避難生活の中で、体調を崩す人も出ていました。
 今村さんは言います。
 「スマートフォンができた時、その便利さに驚きました。その一方で、もどかしい気持ちになりました。これほど科学技術が発達した日本なのに、聞こえない人たちは、今もなお津波警報や防災無線などの情報を得ることができないのです。そいう社会を作ったのは、私たち人間なのです」
と。しかし、さらにこうも訴えます。
 「命に関わる情報に格差があってはならない。そういう社会の『壁』を壊すことができるのは誰か。それも、人間です。私は映画を通して、この問題を一人でも多くの人たちに伝えて行こうと思います」

 今村さんは、東日本大震災の聾者の被災者を追った様子を、「架け橋 きこえなかった3.11」というドキュメンタリー映画として発表しました。2014年ドイツ・フランクフルト日本映画専門映画祭でニッポンビジョン部門観客賞第3位に、そしてイタリア・ローマCINEDEAF映画祭招待作品になるなど海外でも評価を受けています。
 さらに今村さんが取り組んだテーマは、健常者と耳が不自由な人とのコミュニケーションでした。今村さん自身がもっとも苦手とするもので、それまで無意識に遠ざけていたからです。
 陰ひなたで支えていてくれた母親が亡くなったのをきっかけに、今村さんは自転車で日本縦断の旅に出ました。その様子をカメラが追い、旅の先々で出逢った人たちとの交流を映しました。つまり、主演も監督も務めるドキュメンタリー映画です。
 公開後、多くの人たちに感動を呼び、2017年日本映画祭〈ニッポンコネクション〉(ドイツ)で観客賞を受賞しました。

〈今村彩子さんからのメッセージ〉

 二十歳からカメラを回し、30本ほどの映像作品を制作しました。挫折しそうな時もありましたが、家族や友人に支えられ、何とか乗り越えてきました。
 一番辛かった出来事は2014年の夏と秋に母と祖父を失ったことです。人生でこのような経験は初めてでどのように受け止めればいいのか分からず、映画を作る意欲も生きる目的も見失いました。
 そんなある日、ふとクロスバイクに乗ると風を感じました。自転車は漕げば、前に進みます。心のベクトルが外を向いた瞬間でした。死ぬ気になるくらいだったら、自転車で沖縄から北海道まで縦断しようと大決意、次のステージに進むために苦手なコミュニケーションと向き合うため、旅でカメラを回すことにしました。無謀な夢にも関わらず、大勢の方が力を貸し、励ましてくださったお蔭で、2015年の夏に北海道・宗谷岬にたどり着くことができました。こうして、私の自転車旅をまとめた映画「Start Line(スタートライン)」が誕生しました。
 だから、今、辛いことがあってくじけそうな方に私は必死で伝えたいです。「あなたは生きようとする力を秘めています。どんなに死にたいと思っていても。もう一度、前を見て生きようとした時、あなたはスタートラインに立っています」と。

「Start Line」112分/ドキュメンタリー/2016