幸せ体験

「幸せ体験」

親の跡を継いで入った業界で、右も左もわからない頃、大勢の方たちに出会いお世話になった。その中のひとりに、大手出版社で幼児図書の編集長だったUさんがいた。35,6年前の話。たぶん当時、私よりも、少し年上でいらしたと思う。
新しい童話全集を出すとのことで、編集や販売の人たちが大阪に来られて、書店向けの説明会があり、その中の一人がUさんだった。

Uさんは、いかにも編集者らしいボソボソとした喋り方で、話が聴きとりにくかった。
だが、とても熱がこもった口調で、会場の参加者の誰もに「聴き洩らしてはならない」という雰囲気を醸し出していた。そして、こんな話を始められた。

「子どもたちに読み聞かせは絶対必要です。子どもにとって、身近で安心のできる人が自分のために本を読んでくれることが。しかも、楽しい場面では聴いている自分と同じように読んでくれてる人も楽しそうであり、悲しい場面では自分と同じように涙ぐんで読んでくれている。ああ~、いま僕と、私と、お母さんは同じ気持ちなんだ!と子供は感じるのです。そんなふうに、読み聞かせは、子どもたちにとってドキドキして幸せに満たされるのです。僕はそれを”幸せ体験”と名付けています。その幸せ体験が多いほど、その子は幸せだと思います。そう信じて僕は本を創っています」
鳥肌がたった。「読み聞かせ」の意味を、「子育て」の意味を初めて教わった気がした。
そのおかげで、私は、子供向けの本を自信をもって紹介できるようになった。新しい本が出るたびに、Uさんから熱い思いの話を聴き、少しでも「作り手の想い」をお客さんに伝えなければと思って頑張ってきた。
ある日、Uさんは病に倒れ、あっという間に帰らぬ人となった。茫然自失。耐え難いショックだった。葬儀には行くことができず、後日上京して、ご自宅にお参りに伺った。すると、仏前に、1冊の絵本があった。
「100万回生きたねこ」だった。あの大ベストセラーの絵本だ。「これは?」と奥様に尋ねると、「葬儀のあと、会社の部長さんが届けてくださったのです。彼がまだまだ駆け出しのころ、佐野洋子さんにどうしてもうちの会社で本を書いてもらいたくて、頼みに行っては断られ、断られては頼みに行き、やっと書いてもらったのがこれだったそうです。本になる直前に人事異動で部署が変わり、彼の名前が載ることはなかったけれど、これは間違いなく彼が創った本です!と、部長さんは言ってくださいました」
私は何も答えることができず、奥様と一緒に泣いた。
今年の八月。十三回忌だった。ありがとう、あなたの想いを私は伝え続けます・・・。