また煎餅屋さんに8月が来た

「また煎餅屋さんに8月が来た」

我が商店街に、創業70年の手焼き煎餅屋さんがある。名物は、焼き印の入った瓦煎餅。落語家さんや関西のお笑い芸人さんが、襲名披露やお祝い事にオリジナルのデザインで作って下さったり、地元の学校や神社、昨年復元した尼崎城などからと注文は引きも切らない。そのお店をきりもりするのは、二代目のご夫婦だ。今年、そろって喜寿を迎える。奥さんとはたいへん親しくさせてもらっており、この歳まで励まし合って生きて来た仲でもある。実は、そのご夫婦が結ばれるにはドラマがあった。
その昔、「学年誌」と呼ばれる学習雑誌があった。「小学一年生」「中ニコース」「蛍雪時代」など、ほとんどの少年少女が読んでいた。「懐かしい!」とおっしゃる方も多いに違いない。うちの店でも毎月、両親が各家庭への配達に追われていたものだ。
その、「高ニコース」を定期購読していた手焼き煎餅屋の息子と、長崎に住んでいた同じく高校二年の女の子が、ある日、その雑誌がきっかけで文通を始めた。当時の雑誌の多くには、「文通コーナー」があった。読者同士が、この欄を通して文通するのが一つのブームになっていたのだ。SNSの無い時代にも、若者は未知の出逢いを求めていたのである。
さて、ここからドラマが始まる。たまたまであった。なんと、煎餅屋の息子の修学旅行の行き先が長崎だった。彼は、「長崎駅で会えますか?」と手紙をしたためた。そして二人は運命の出会いを果たす。彼は関西の大学へ入学。彼女の方はといえば、高校を卒業後、地元の長崎で就職し社会人になった。それでも、4年間文通は続いた。二人は、手紙を通して愛を育んだのだ。
二人が23歳になった時のことだった。彼女は、会社を辞めて大阪へ出ることを決心する。もちろん、彼と付き合うためである。母親は、泣いて引き留めたという。だが、駆け落ちというわけではない。彼女は働き口を見つけて、一人でアパートを借りて暮らした。当時を振り返り、「あの時は寂しかった」と言う。親の反対を押し切って家を飛び出し、見知らぬ土地で暮らすのは思うよりもつらかった。だが、その一年後、二人は結婚して家庭を持った。
終戦の日が近づくと、毎年彼女が言う。「わたし、死んだら長崎に帰りたいの・・・」。ここで彼女の父親の話をしなければならない。彼女の父親は、毎日新聞の記者をしていた。あの悲惨を極めた沖縄戦の取材中に、逃げきれず海で命を落としたのだという。彼女が2歳、妹さんは生まれたばかり8日目のことだったそうだ。沖縄の波之上にある「戦没新聞人の碑」には、今も父親の名前が刻まれている。
後年になって知ったこと。母娘の3人は、長崎の原爆で被爆していたのだという。しかし、娘たちが被ばくによる迫害、差別を受けないようにと、母親は長年にわたって口を閉ざしていた。つい数年前になって、ようやく原爆手帳を取得し、今は毎年白血病の検査を受けてるのだという。「今思うと、お母さんはどんなに私のことを心配し、心細かったろうと思うの」と、しみじみ語る。
その母親も、亡くなった。実家は長崎特有の坂の上にあり、長い長い石段を上らなければならない。近年、彼女は、その石段を上がる体力もなくなったと嘆く。長崎で22年、尼崎に移り住んで55年。すっかり関西人だ。「でもね、小林さん」と、小声で言う。「わたし、死んだら長崎に帰りたいの・・・」。戦時中がゆえ、父親の遺体は上がらなかった。「寂しい思いをしていた母の眠る長崎の海へ、私のお骨を流してほしいの。父の眠る沖縄の海とも繋がっている海へ流してほしいの。よくがんばったねって言って」。
彼女は続けてポツリと呟いた。「きっと、私のこと、お父さん、お母さん、抱き締めてくれるよね」。またあの八月が来た。