死んでも忘れない

尼崎のまちの本屋さんのお話

「死んでも忘れない」

小林由美子

もう24年も前の出来事である。その年の初夏、ある出版社から「子どもとお母さんのためのお話」という絵本を作る予定だという話を耳にした。日本の昔話25話と世界の名作25話の二冊を化粧箱に収めたもので、厚さ4センチ、価格は5千円。作家はいもとようこさん。「しゅくだい」「かぜのでんわ」「きつねとぶどう」「ごんぎつね」など、誰もが一度は目にしたことのある日本を代表する絵本作家だ。ちぎった和紙に着色する独特の技法で知られている。昔から大好きだったこともあり、この企画に強く興味をひかれた。

古くから語り継がれている昔話には、「何が正しく何が悪いのか」「人を困らせたり傷つけたりしたら必ず自分に悲しいことが起こるよ」といった人間の基本のようなことがわかりやすく表現されており、楽しんで読むうちに知らず知らず道徳観が身につく。幼児向けの本にしてはいかにも高く、容易く売れるものではない。だが、幼少期の子どもたちに、ぜひ読んでほしいと思った。出版社の方いわく「いもとようこさんの集大成です」と。これは未来をになう子どもたちのために売るしかない、と腹を決めた。

発売日まで半年ほど。わたしは配達や来店客、それこそ道でばったり逢った人にも「今度、こんな絵本が出るんよ~」と熱く語った。毎日何十回も同じ話をし続けるので「もう何回も聞いたやん」と言われることもしばしばだった。この本の企画説明会で、いもとさんご本人にお目にかかったことから、さらに熱が入った。一人、二人と予約をいただくたびに、「ご予約いただきました!」と、いもとさんにFAXで報告した。すると、その都度律儀に「ありがとうございます」返信が届いた。こちらは名もない小さな本屋だ。作家さんとやりとりできるだけで夢のような出来事。それは何よりの励みになった。

そしてついに、予約数が100セットに達した。発売日に狭い店内に積み上がる様を想像し、胸がふるえた。
発売1週間前のことだった。出版社の担当者から電話が入った。「いもとさんが、小林さんの予約分100セットにぜひサインしたいと言われています。発売協定品なので著者といえども前もってお渡しできない決まりです。発売されてからお預けして書いてもらうので、貴店に届くのが2、3日後なります」と。感激した。著名な作家さんがそこまでして下さるなんて。ふと電話口で涙がこぼれたのを思い出す。だが、わたしは泣きながらこう答えていた。「とっても嬉しいです、でも・・・でも・・・お断りします」「えっ!なぜですか?」。相手の驚きと懐疑の表情が目に浮かんだ。

予約いただいたお客様には電話で、「サインしてもらえるので少し遅れます」とお詫びすれば、きっと承知してもらえるだろう。だが、予約なしで新聞広告を見て来店されたお客様は、「ああ、やっぱり小さな本屋には入ってないんだ」と思われるに違いない。零細店舗がゆえに、新刊もベストセラーも入らないという宿命の中で商いをしてきた。そんなお店だからこそ、命がけで予約をいただきに東奔西走したのだ。たくさん予約が取れれば、それを信用にして必ず商品が入る。それは、普段はとうていかなわない大手書店に対する、真っ向からの意地の勝負だった。

いもとさんに真っ赤に目を腫らしながらFAXした。「本当にありがとうございます!身に余るお申し出でにもかかわらず申し訳ありません」。やはり・・・いつもならすぐに返信が届くはずなのに。「きっと不快な思いをしておられるだろう」と、辛くして仕方がなかった。
話はここで終わらない。明日が発売日という日のことだ。大きな段ボール箱が届いた。「え?!」。それは、いもとさんからだった。開けると、「ありがとうね!」の一言のメッセージが目に飛び込んで来た。実はこの商品には、予約特典としていもとさんの複製の額絵が2枚ずつ付くことになっていた。それは発売日に商品とセットで入荷することになっていたのだが、なんと、サイン入りの額絵200枚を別途送って下さったのだ!またまた号泣してしまった。慌てて、出版社の担当者に電話をした。すると、「そのサイン入りの200枚の額絵は、いもとさんの小林書店さんに対する感謝のお気持ちです。明日届く額絵は返送いただく必要はありません。そのままで結構です。販売促進のためにご活用いただけたら幸いです」と言われた。私どもからこんな僅か10坪の店に・・・夫婦で頑張って来た日々が報われた気がした。
そして、いよいよ発売日当日。取次店から届いた100セットの山積みの本を前にして、夫が言った。

「今から、この100セットの本に2枚ずつ付いている額絵のうち、1枚をサイン入りのものと差し替えしよう。きっと予約をして下さったお客様は予想外のことに喜んで下さるに違いない。さて、それからだ。するとサイン入りの額絵は、手元に100枚残ることになる。何年かかるかわからないが、サイン入りの額絵を付けて、さらに追加で売るんや。それがいもとさんへのお礼やで。人は受けた恩をわすれてはならん。自分の立ち位置でどう返し送っていくのかや」

わたしは声をあげて泣きながら、何度も頷いていた。

正直、100冊の予約をいただくために走り回り、精魂尽き果てていた。だが、いもとさんの暖かな気持ちに恩返ししたいと思った。それは、多くの人達にこの本を読んでもらうことだ。いもとさんの顔を思い浮かべながら、ふたたび「いい本があるんです。ぜひお子さんに」と、人の顔を見る度にしゃべくりまくった。そして・・・長くはかかったが、さらに100冊近くを売ることができた。「人は受けた恩をわすれてはならん」。あの時の夫の言葉を、わたしは死んでも忘れないだろう。