あのとき本当に頑張ったよね

「あのとき本当に頑張ったよね」
懐かしい顔が、突然店頭に現れた。S書房の店主〇さんである。御年八十八歳。店を閉められて30年になるという。走馬灯のように、生き残りをかけて格闘してきた同志たちとの日々が脳裏をよぎった。
40年ほど前、両親のあとを継いで本屋になった。バブルの最中だというのに、零細の店にその恩恵はなく経営は苦しかった。いくら売りたくても新刊書籍やベストセラーの入荷はほとんどなく、委託販売という名目のもと売れそうにない商品ばかりの入荷で支払いに追われていた。どうすれば出版社や問屋にうちを覚えてもらえるのかと模索の日々だった。
そんな中、「企画もの」の発表会に参加した。説明を聞き、「これだ!」と確信した。「企画もの」とは、出版社が何年もかけて編集した百科事典や名作全集、美術全集などのことだ。採算に合うための印刷部数を算出し、その部数を確保するために発売前に企画発表会なるものを開催して個々の書店に予約を促すのだ。
これなら大型書店も零細書店も立場は同じはず。零細のプライドをかけて顔見知りのお客様を回った。しかし、予約してもらうのは容易いことではなかった。本の現物はなく、パンフレット1枚で説明し購入してもらうのだ。誠実だけがウリ。くじけるわけにはいかなかった。くじけたら潰れる。でも辛い時、同じように必死で頑張っているであろう零細書店の「仲間」たちのことを思い浮かべると、勇気をもらえた。わたしはこの時「セールスとは断られてから始まる」ことを学んだ。
さて、そのS書房の〇さんが言う。「あの頃の仲間に会いたい」「年令からして今生の別れだ」と。「わたしも」と答えた。〇さんが幹事となり、当時の零細書店の仲間五名が集まった。八十八才、八十五才、八十才、七十九才、七十三才(わたし)である。わたしの他はみんな既に現役を離れている。おそらく最初で最後の同窓会になるだろう。
「あのとき本当に頑張ったよね」と誰彼となく何度も言い合った。五人の誰もに間違いなく言えること。「あの日があったから、今の人生がある」。それこそが、一人ひとりにとって誇りである。「元気でね」「元気でね」・・・と、いつまでも別れを惜しみながら手を振った。春から夏に変わる花の道を帰った夕暮れであった。