柴原薫さんプロフィール

ヒノキを通して日本の将来を考える実践家木こり

柴原 薫 (男性です) プロフィール

昭和35年1月1日、母の実家・長野県南木曽町大山にて生まれる。
中仙道の妻籠宿まで歩いて5分。山しかない山の中に、妻と暮らしています。

座右の銘

「守・破・離」
時代が変わっても守り通さなければならないものがある。それを守り続けると、ある時、改革され方向を変えられることもあるの意。
「やってみたことしか判らない、身に付かない。」
頭で考える前に、行動を起すこと。

仕事

長野県木曽郡南木曽町吾妻1182-2
南木曽木材産業(株)代表取締役

埼玉県和光市新倉3-5-24-501
(株)木は氣なり代表取締役

活動

南木曽町林業研究クラブ・会長
WCN「ウッディ・クリエイト・ナギソ」がんばれ神戸震災普及応援団
長野県地球温暖化防止活動推進員
中田ひろし横浜市長と共に日本を良くする「万緑の会」会員
NPO新月の木国際協会会員
船井幸雄主催「船井塾」三期生
小田全宏主幹「多賀創世塾」10期生
石川洋 世話人会会員ならびに「ありがとう山の日設立運動」発起人
杉浦銀治-炭焼き癒し窯研究会会員
坂村真民ファンクラブ熱烈会員

連絡先 kaoru.shibahara0@gmail.com

志賀内泰弘

柴原薫さんのこと

 もっとも親しい友人の一人・長野県南木曽町の柴原薫さんは、山林業と建設業を営んでいます。
 会うたびに、実にたくさんの「いい話」を聞かせてくれます。
 中でも、「ひのき」のことなると、愛があふれて止まりません。

 初対面の時のことが忘れられません。
 異業種交流会で名刺を交わした翌々日。
 重たい小包が届ききましたいた。
 開けてびっくり、玉手箱。
 中から「ヒノキのまな板」が出てきのです。
 慌てて電話すると、
 「名刺を交換した方すべてに贈っているんです」
とおっしゃいます。
 (デパートでは5千円するらしい)ヒノキを使っていただくことで、ヒノキの良さを理解してもらい、その活用方法を一緒に考えてもらおう、という作戦(本人いわく、下心)だといいます。

 差出人の柴原薫さんは、林業を先代から継いで楽な人生と思っていたそうです。
 ところが、木材需要の落ち込みと、安い輸入木材が入ってきたことで危機感を覚えました。
 間伐のコストが問題になるのです。
 そこで、間伐材の利用を広げるために、様々な市場開発を試みました。まな板もその一つだったのです。

 私の知らないの世界の話に耳を傾けました。
 間伐しないと、山は荒れ林業は立ち行かなくなる。
 保水が損なわれ、川が氾濫する。
 土砂が川に流れ、海のプランクトンに影響を与え漁場も荒れる。
 魚は山にいるのです。
 ……でも採算割れで、間伐ができません。ヒノキを間伐して市場に出すだけで1本20万円赤字(杉なら100万円)になるといいます。
 例えば、スーパーのトレイも杉で作りました。30倍のコストになってしまいました。一番小さなトレイで35円。それは、消費者が負担することになるのです。結局のところ、この国の自然環境を守り、後世に残していくのは、国民一人ひとりなのです。
 たしかにデフレの時代に逆行しています。でも、それを承知で守らなければならない物もあるのではないか。

 まな板は会社の経費じゃなく、あえて自分のお小遣いで払っていると聞いて、またまたびっくり。
 千枚以上贈っているうちに、商売のことなんてどうでもよくなったといいます。喜んでもらえればいい。そして、日本の自然を守りたいという境地になったというのです。

 柴原さんは、大学卒業後、父親の反対を押し切り林業の道に入りました。その当時の苦労話を、月刊「PHP」の「ヒューマン・ドキュメント」に取材して書かせていただいたことがあります。

その一部を紹介します。

父親から引き継いだ会社で、もがき苦しむ

 小学生の頃から、「家の手伝い」と称して山林の下草刈りをさせられてきた。夏には一週間も続けると、大人でも身体が火照って動かなくなるほどの重労働だ。それすら当たり前の生活をしてきたので、山は身近で親しみのある存在だった。父親は投機師でもあり、木材の相場を読む天才だった。電話一本で木材を売買し大儲けしていた。それを間近で見ていた息子としては、「後を継ぐなんて楽勝だな」と思ったという。
 ところが、2006年に社長を継ぎ、それが妄想だったということにすぐに気付く。想像を遥かに超えて、日本の林業はピンチに立たされていた。全国の同業者は、次々に倒産。ある山林地域では、最盛期598社あったものが、たった3社になっていた。人件費が高騰し、輸入材に太刀打ちできない。会社の帳簿を見て愕然とした。
 加えて、父親との確執に心を押し潰されそうになる。社長就任後も、社員は、天才と呼ばれた会長である父親の方を向いて仕事をしている。ある日、社員に指示を出した。出張して会社に戻ると、その指示がひっくり返っていた。留守中に、会長が来て異なる指示を出したのだ。それは、柴原さんがいくら抗っても、どうすることもできなかったという。
 「なんとかしなければ」と悩みに悩んだ。もがき苦しんだ。そのあげく・・・。

どん底を救った教え「唾面自乾」

 今でも、筆者は覚えている。ある晩、柴原さんから一通のメールが届いた。「辛い。今、中央自動車道路の○○を走っている途中のサービスエリア。このままガードレールに突っ込んだら、死ねるかな・・・」。慌てて電話をかけるも繋がらない。翌日、連絡が取れ、「大丈夫?」と尋ねると、笑って「大丈夫、大丈夫」と答えた。当時、身体に変調をきたしていることを聞いていた。十二指腸潰瘍、偏頭痛、無呼吸症候群・・・。今から思うに、ストレスが極限となり身体が悲鳴を上げていたのだろう。
 そんな時、柴原さんは運命の出逢いをする。イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんだ。悩みを打ち明けると、思わぬ厳しい答えが返ってきた。
 「唾面自乾。たとえ顔に唾をかけられても、拭ったりしないで自然に乾くまで我慢しなさい。後継者は、耐え忍ぶことが大切です」
 唖然とした。こんなに苦しいのに、ただ耐えよという。しかし、その一言で覚悟ができた。それまで、安楽な道を模索し、辛さから逃げようと考えていた。これからは、真正面に向き合おう。そして、目先の利益を求めない。あえて「遠回り」をして歩こうと。

 柴原さんは、「唾面自乾」をこう受け取りました。
 「すぐに結果を求めるのは止めよう。
 自らの困難に耐えに耐え、我欲を断ち、この日本の山々を50年、100年と守り育てることに命を懸けよう。
 利益はきっと後からついてくる。
 時代が変わっても、守り通さなければならないことがある。
 それを守り続けると、ある時、突然目の前が開け方向を変えられる日が来る。
 茶道や剣道の修業の教え
 「守・破・離」
 を信じ、柴原さんは歩き続けて来ました。

 語り部の柴原薫さんの話を、志賀内泰弘が聞き書きをして、
 「木にまつわる『いい話』」をまとめました。
 それが、
 「山が教えてくれた子供に伝えたい「いい話」です。
 ぜひ、お読みいただけたら幸いです。