高野登さん「ある日、東京の地下鉄の車内にて」

「ザ・リッツ・カールトン・ホテルの

心に届く『おもてなし』」

〇 高野登さんが、ザ・リッツ・カールトン・ホテルの日本支社長時代に、志賀内が編集長を務めていた月刊紙「プチ紳士からの手紙」に寄稿いただいたお話を紹介させていただきます。

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ある日、東京の地下鉄の車内にて

 人とホスピタリティ研究所代表

                                  高野登

先日、都内を地下鉄で移動していたときのことです。

 

リッツ・カールトンのある六本木駅に地下鉄がとまると、すらりとした、髪の長い女性が乗り込んできました。姿勢や歩き方、お化粧などから、ひと目でモデルさんだなと分かる風情です

 

混んでいる車内で、私と並ぶかたちで、優先席の前の吊り革につかまりました。

 

走り出してしばらくしたときのこと。その彼女が腰をかがめて、前の席に座っている年配の女性の耳元でなにやら囁いたのです。おや、知り合いに気が付いたのかな、などと想像して見ていたのですが、どうも様子が違います。

 

その年配の女性は、はっとした様子で、片手で膝の上の荷物を押さえながら、もう一方の手でブラウスの前に手をかけました。

 

そこでようやく私も気が付きました。女性のブラウスのボタンがいくつか外れていて、上から見ると下着が見えてしまっていたのです。それをそっと伝えたのでしょう。

 

懸命にボタンをかけようとするのですが、なかなかとめることが出来ません。どうも手が不自由らしいのです。じっと見ているわけにもいかず、でもなんだかこちらまで焦ってきます。

 

とその時、立っていたその女性が再びかがみこんで、小さな声で『お手伝いさせてくださいね』と囁き、にっこりと微笑みながら、ブラウスのボタンを、鮮やかな手つきでとめてしまったのです。

 

あまりに意外なことに、あっけに取られてされるがままにしていた女性。でもその顔にはすぐに笑顔が浮かびました。親切がほんとうに有難かったのでしょう。

 

『参った!』思わず私は心の中で拍手をしていました。さすがは早変わりや着替えになれているモデルさん。それにしてもなんという自然体でしょうか。

 

次の駅で、会釈をして颯爽と降りていく彼女の背中に向かって、年配の女性は何度も何度も頭を下げていらっしゃいました。

 

殺伐とした東京の、混みあった地下鉄の車内。その時、その一角は暖かい穏やかな空気に包まれ、やわらかな光にあふれていたような気がしました。

 

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このお話は、どこにでもある光景かもしれません。でも、そんな微笑ましいワンシーンに、周りのどれほどの人が気付いたことでしょう。その気付きが、「学び」や「豊かな発想」を生み出す源となります。

そんなどこにでもあるステキな話を見つけるには、感性に他なりません。

高野登さんの著書「絆が生まれる瞬間 ホスピタリティの舞台裏」(かんき出版)の中に、こんなことが書かれてありました。

食器を洗うという仕事がある。一日に八時間、何も考えずに洗うだけという人は、単に業務をこなすという域を出ない。けれども、食器を洗いながら、

「この素材は熱いお湯には弱いんだな」

「このグラスは薄くて繊細だから、手で洗ったほうがいいな」

などと考えながら、手触りで物の価値を知ろうとする人の感性は、間違いなく研ぎ澄まされていくというのです。

感性のアンテナを、携帯電話のように、ピッとしっかり3本立てていたいものです。

(志賀内泰弘)