飛ばされた帽子 (2007/5/27)
名古屋市中村区の吉川美香さん(31)の二歳の娘さんは、リンゴの絵が付いた帽子がお気に入りだそうだ。その日もこの帽子をかぶって散歩に出掛けた。
笹島の大通りに出た時、ビル風にあおられて帽子が飛ばされてしまった。あっという間の出来事で、追いかけることもできなかった。次々と通る車の風圧で、帽子は道路の真ん中をころころと行ったり来たり。
信号のタイミングを見計らって取りに行こうかと迷ったが、娘さんが後を付いて来てしまっては危ないと思い、とどまった。
その時である。目の前に一台の白いバンが止まり、四十代くらいの男の人が降りて来た。工事の作業服のようなものを着ていた。吉川さんに「あれ、そう?」と帽子を指さした。うなずくと、渋滞していた車の中をスイスイと縫うように駆け抜け、帽子を取って来てくれた。
帽子を手渡すと、男の人はすぐに車に乗り込んだ。あっという間の出来事だった。ところが、今度はなかなか車線に戻ることができない。そんなことは承知のはずなのにわざわざ…と思うと、目頭が熱くなった。
吉川さんは「ありがとうございました」と言うのが精いっぱいだった。代わりに娘さんと二人で、車が見えなくなるまで一緒に手を振り続けた。渋滞の中に消える前、おじさんが窓から右手を出して、「バイバイ」と軽く振り返してくれるのが見えた。
「娘が大きくなるまでに、さりげなく手を差し伸べあえる世の中になるように自分自身も行動したい」と吉川さん。少し汚れてはしまったが、娘さんはその後も、リンゴの絵の付いた帽子を大切にかぶっているという。