車いすダンスの普及に努める寺田恭子さんの話

「苦労は買ってでもせよ」と言うけれど

「カッコイイ!車いすダンス」

 桜花学園大学保育学部教授の寺田恭子さんは、障がい者スポーツを多くの人たちに理解を求め普及することに人生を捧げてきました。現在、車いすダンスを楽しむ「車いすダンス名古屋ビバーチェ」の顧問を務めています。
 車いすバスケや車いすテニスは聞いたことがあっても、車いすダンスはご存じない人も多いでしょう。かくいう志賀内も知ったのは最近のこと。映画のワンシーンで、車いすの人と健常者がペアを組んで一緒に社交ダンスを踊るところを見て感激しました。身体にハンデがある人たちのスポーツ見ると、どうしても「不自由なのに頑張ってるなぁ」と心のどこかに同情を抱いてしいます。ところが、それは「美しい!」「カッコイイ!」と声をあげるようなものだったのです。
 寺田さんとの出逢いは、偶然にもその直後のことでした。

息子さんが、脳性まひと判明

 恭子さんは、筑波大学大学院でスポーツを通じた健康教育学を学びました。その大学院でご主人と出逢い結婚。ご主人の故郷である愛知県に引っ越して来ました。そして研究者を目指して大学の助手になりました。男の子を出産し、幸せな家庭も築きました。
 ところが、その長男ユースケ君が、2歳の時に脳性まひであることがわかります。夫婦して、一気に不幸のどん底に突き落とされました。恭子さんは泣き明かします。そして自分を責めました。「どうしてこんなことに?」「出産の際、帝王切開していたら避けられたのかもしれない」・・・。医師から宣告されました。「治りません」と。生涯、一人で歩くことができない。とうてい受け入れることもできず、失意の日々が続きました。辛いリハビリを嫌がるユースケ君に、「やらなきゃ治らない。頑張りなさい」と叱り続けました。

寺田さんの大きな決断

 さて、その翌年、1993年。恭子さんが、たまたま横浜で開催された国際障がい者スポーツ学会に参加した時のことです。ドイツから来日した車いすダンスの団体競技を観戦し感激します。
 「美しい!彼らには、車いすは道具ではなくて、『足』そのものなんだ。その足で、いきいきと踊っているんだ」
 と同時に、恭子さんの心に変化が生じます。心のどこかに、うっすらと「障がいは良くないもの」という偏見・差別の意識があることに。それは、ユースケ君の存在自体を否定することに繋がっていたのだと気づいたのです。
 それがきっかけとなり、「ユースケが障がい者であることを素直に受け入れ、その後、どのように応援していったらいいのか」と前向きに考えられるようになったと言います。
 その時、寺田さんは大きな決断をします。「日本にも車いすダンスを普及させよう」と。しかし、これには家族や周囲の人たちの理解が必要でした。
 というのは・・・。当時は、子どもに障がいがあるとわかると、「母親は仕事を辞めて、24時間365日付き添うものだ」という考えの人が多かったのです。恭子さんが、「名古屋ウィールチェアダンス同好会」を1995年に設立した時、ユースケ君は5歳でした。周囲からは、後ろ指を指すような声もありました。でも、祖父母やご主人の応援を得て普及活動をづけました。
 その後、紆余曲折の変遷を経て、「車いすダンス名古屋ビバーチェ」の運営とともに、全国の車いすダンスの団体のネットワークを作りました。

誰もが自分らしく生きられる社会を作りたい

 恭子さんに、
 「ユースケ君の世話と大学での教鞭を取る仕事。加えて、車いすダンスの普及活動。相当心身ともに大変なことだと思いますが、どこからそのエネルギーが湧いて来たのですか?」
と尋ねました。すると、こんな答えが返ってきました。
 「せっかく大学院で学んだので、研究を続けたいと言う欲はありました。でも、それ以上に心の底から湧き上がるものがあったのです。障がい者は、差別や偏見の中で生活しています。でも、思ったのです。ユースケが大人になった時、その偏見が少しでも和らぎ、誰もが自分らしく生きられる住みよい社会を作りたいと。だから・・・自分の息子のためだけでなく、世の中すべての障がい者の応援もしていきたいと思ったのです」

自ら苦労を買って生きる

 言うは易し、行うは難し。それはどれほどに茨の道だったことでしょう。1998年の第一回車いすダンス世界大会での悲しいエピソードを伺いました。車いすダンスの演技が始まると、観客から「車いすで障がいを見せびらかすな」というクレームが大会本部に寄せられたというのです。また競技の最中に、恭子さんがパートナーの膝の上に一瞬だけ腰掛けるという振付があるのですが、その際にも「障がい者の上に人が乗るなんて何事だ!」といういう怒りの声が・・・。次の演技では、その振付を変更せざるを得なかったというのです。
 もちろん、今では笑い話。でも、当時は、そのくらい「障がい者は外に出すな」「見世物にするな」という考え方の人が多かったのです。
 「苦労は買ってでもせよ」と言います。でも、実際には誰も「買って」まで苦労を背負いません。そんな中、恭子さんは自ら苦労を買って生きて来られました。その功績は数字では表せませんが、車いすダンスを楽しむ人たちは、確実に増えています。障がい者を街角で見かけることも多くなりました。
 そして、そんなお母さんの後ろ姿を見て、ユースケ君も立派な青年に育ちました。ハンデがあるにもかかわらず、障がいに理解ある良き伴侶と結婚し幸せな家庭を築きました。

【寺田恭子さんからのメッセージ】

「苦い思い出のその先に・・・」

 「野球がやりたいのに、なんで俺だけ諦めなくちゃいけないんだよ!!なんでこんな身体に産んだんだよ!!」土曜日の昼下がり、食卓についた息子が怒鳴った。用意したチャーハンは床に散らばり、時間が止まった。彼は16歳だった。
 息子はスポーツを専門に教える私達夫婦の長男。でも皮肉にも胸から下が自由に動かない身体、脳性麻痺で生まれた。当時私は、私自身のアイデンティティを打ち砕かれた気持ちになり、絶望感を感じたこともあった。しかし、“車いすダンス”に出会って、自分らしく踊るダンサーの姿をみて自分の生き方を再考した。
 その後、私は息子のチャレンジを全力で応援した。そのチャレンジの1つが野球だったのである。足を引きずり、健常児の中で懸命に野球を続けた息子。しかし、それも年齢と共にあらゆる面で彼の限界を超えていった。私は、冒頭の息子の言葉と態度にはさほど驚かなった。来る日が来たという感じ。でも頭の中は真っ白だった。その夜息子に、「事実を受け止め、自分のチカラで生き抜いて欲しい」と伝えると、彼は無言のまま頷いた。
 あれから13年。今息子は多くの人に支えられ、ユーチューバーという仕事をお嫁さんと一緒に頑張っている。悔しい!という負の気持ちも、前向きにいこう!と思う正の気持ちも、そのエネルギー量は等しい。だったら、全て前向きのエネルギーに変えていこう!そんな私の思いを彼は受け入れ、生き抜いてくれた。
 2019年5月31日、息子が自身のツイッターにこう書き記した。「29歳になりました! 今日は誕生日で障がいを負った日でもあります。10代は戸惑いの多い人生でしたが、20代後半でまゆみにも出会え僕は幸せ者です!『寺田家TV』も全力でやります!!母さん、産んでくれてありがとう!!」
 生まれてきてくれてありがとう・・・私達家族は、大きくバックスウィングしたおかげで、時間はかかったけれど、ホームランを飛ばせたのかな。いつか必ず幸せはやってくる、そう信じて生きてきた自分にも小さく拍手!

※『寺田家TV』は、ユースケさんのユーチューブの人気番組名です。

〇「車いすダンス名古屋ビバーチェ」の詳しい内容と、連絡はこちらからご覧になれます。
http://vivace-nagoya.mints.ne.jp/