緒方千奈さん「NEО和装スタイル協会」良い事も悪いことも、すべてに感謝する(その1)
病にもかかわらず、出産を望む 志賀内泰弘
「笑顔の理由」を教えてください
鹿児島の友人から、「ステキな人がいるので紹介させて欲しい」と連絡がありました。
その人は、緒方千奈さん。
名刺の肩書は、
一般社団法人「NEО和装スタイル協会」代表理事
奄美観光大使
鹿児島在住です。若者達に着物の魅力を伝え、伝統工芸を残したいという思いで、大島紬を取り入れた和装のファッションショーやイベント活動に取り組んでいます。着物姿で現れた緒方さんを一目見て、ドキッとしました。
「ああ、なんて素敵な笑顔なんだろう」
まるで太陽のような笑顔なのです。私は、「これは何かある」と思いました。稀ではあるけれど、生まれながらにして「笑顔」のステキな人もいます。でも、たいていの場合、後天的な笑顔であることが多いのです。「笑顔」になる練習をして「ステキな笑顔」を習得した人もいます。例えば、タレントや航空会社のCAのように。
一方で、とてつもない苦労の人生を送り、それを乗り越えたところで自然に「笑顔」になった人がいます。緒方千奈さんは、その後者でした。
直感、いえ、経験からの推測は当たりました。緒方さんは、自分よりも人のこと。どんなに辛くても、「世の中のために」と尽くすことが生きがいの人でした。
結婚して、いきなり難病になる
緒方さんは、2000年23歳の6月に結婚しました。新婚ほやほやの生活の中、体調の異変に気付きます。身体がだるく座っているのもしんどくなり、手の関節が痛くて眠れない日々が続きました。結婚式の準備の疲れか、夏バテだと思っていました。その後、発熱し関節の痛みがひどくなり病院へ行きました。何軒もの病院で診てもらいましたが、原因がわかりません。5軒目の病院で、「全身性エリテマトーデスです」と診断されました。
それは自己免疫疾患の一つで、当時は死に至る病気と言われていました。(現在は、投薬治療によりコントロールが可能となり生存率が格段に高くなりました)
「一生続く病気です。今は、ステロイドしか治療薬がありません」
と言われ、目の前が真っ暗になります。新婚にも関わらず新居と実家を行ったり来たり。微熱が続き、11月には入院。旦那さんにも義父母にも申し訳なく、何度も離婚を申し出しました。しかし、旦那さんは、
「絶対に離婚はしないよ。病気でもかまわない。愛しているから」
と言いました。
入院すると、同じ病気の患者さんの様子を目の当たりにすることになりました。指が壊死して切断する人。腎臓が悪くなり透析をしている人。緒方さんも症状が悪化し、顔が腫れあがってしまいました。
心配した母親が、藁をもすがる気持ちでいろいろな民間療法などを持って来ました。高額なサプリメント、水、布団・・・さらには霊感があるという巫女さんに視てもらったり。この時には、
「このままだとあなたは34歳で死ぬよ」
と言われ、涙したといいます。
激しい運動はダメ、日光に当たってはいけないと、暗い部屋で寝たきりの毎日です。何のために生きているのかわからない日々を送ることになりました。
旦那さんが帰宅しても、暗い部屋で布団にくるまり「痛い、苦しい」と唸っています。みんなに迷惑をかけ、絶望の淵にいました。
周りの反対を押し切り、子供を産む
実家の近所の人に、母親がこんなことを言われたそうです。
「うちの子じゃなくてよかった」
旦那さんは、知り合いにこう言われたそうです。
「たいへんな嫁もらったね」
やるせなくてたまらない中、ふと、こんなことが頭をよぎりました。「私でも子供が産めるだろうか」。その思いは、布団の中でどんどん大きくなりました。「子供が欲しい」と。
もちろん、旦那さんは反対しました。病院の先生に、真剣に相談すると、こう言われました。
「薬を飲み始めたばかりだから、まだ大丈夫かもしれません」
1年後の2002年11月、めでたく妊娠して長男を出産しました。しかし、緒方さんは関節の痛みで、子供を抱っこできません。それでも、座椅子に座って胸に赤ちゃんを置いて、ゆらゆらしながらあやすなど、工夫をして愛情を注ぎました。
しばらくすると、この子のために弟か妹を作ってあげたいと思うようになりました。それは、もしも自分がこの世からいなくなっても、一人じゃないから・・・と考えたからです。しかし、今度はステロイドを服用し続けているので、かなり困難を極めました。
二度、稽留流産。一度流産。稽留流産とは、赤ちゃんが死んでしまっているのに、子宮の中にとどまっている状態のことです。
「赤ちゃんの心臓が動いていません。このままでは腐ってくるので手術の日をご家族と決めてください」
と先生に言われて泣き明かします。そして、四度目の妊娠。
「薬の影響などで、赤ちゃんに7割の確率で障がいが出ます。ご家族と話し合ってください」
その時、母親に言われました。
「二人でお母さん役をすれば大丈夫よ」
その言葉に力づけられ、出産に臨みました。そして2007年7月、無事に五体満足な女の子を出産したのでした。