川原啓美さん・アジア保健研修所ものがたり(その1)

「足を切られては困る」

 アジア保健研修所(AHI)という財団法人があります。
 医療の遅れているアジアの過疎の地で働く保健ワーカーを育てるため、各国から研修生を受け入れている国際協力団体です。医師・川原啓美さんが、医療の遅れから不幸な人生を歩まざるをえない人たちを目の当たりにしたことが設立のきっかけでした。

 それは、1976年の秋、川原さんが48歳の時の話です。
 ネパールの病院に三ヶ月間、外科医として招かれました。ネパールと言えば、誰もが知るエベレストに代表されるような高い山々がそびえています。険しい山岳地帯に住む人々は、厳しい気象条件の中で生活しています。
 川原さんが赴任した病院は、いくつもの山と谷を越え、一週間もかけて歩いて来たり、あるいは近所の人たちに担がれてやってくる患者であふれていました。私たちが「病院へ行く」というと、風邪をひいたとか、お腹の調子がよくないと訴えて訪ねる場合が大半かと思います。しかし、そこでは、それこそ、生と死の狭間にいる人たちが患者なのです。
 川原さんは、ここで、人生を変える出来事に遭遇しました。

 ある日のこと、足に皮膚癌のできた女性が、夫に連れられてやって来ました。患部を見て、川原さんはすぐにかなり進行した皮膚癌だとわかったそうです。皮膚から血がポタポタと滴り落ちていました。 
 「ただちに足を切り落とさなければならない」
と夫婦に告げました。そのままでは、命にかかわります。選択肢はありませんでした。
 ところが、です。
 彼女は顔色を変えて、こう答えました。
「そんなことをしてもらっては困ります。足がなくては、水汲みなどの家事ができなくなります」
 ネパールの山岳地帯では、マラリアなどの恐れもあり、高い丘の上に住居を構えています。そのため、主婦の一日の最初の仕事は、まだ暗いうちに起きて、下の谷川から二時間くらいかけて水を汲んでくることでした。その仕事ができなくなるというのは、どういうことを意味するのか・・・。

 「もしも私が足を切られて寝たきりになったら、家事ができなくなってしまいます。六歳を頭に四人の子どもたちは、まだ水汲みもできません」
彼女は、そう答えました。
 川原さんは、それでも、
「あなたの命を救うには、どうしても足を切断しなくてはならないのです」
と繰り返し説きました。しかし、彼女からは思いもよらない答が返ってきました。
 「私の命がなくなるというのは悲しいことです。でも、それはやむをえないことであり、一つの解決でもあります。とういうのは、自分が死ねば、自分の夫は次の奥さんを迎えることができます。その奥さんは、私の子どもたちを育ててくれるでしょう。しかし、足を切られたどうなるでしょうか。一家は全滅するかもしれない。だから、足を切ってもらっては困るのです」

 川原さんは最初、通訳が間違えているのではないかと、何度も聞き返したそうです。自分の命を引き換えにしても、家族のことのほうが大切だと言っているのです。彼女は、別にすぐれた宗教家でもなく、普通の農家の奥さんでした。
 河原さんは、それ以上、返す言葉を失いました。
 やむをえず、腫瘍だけを切り取り、患部に皮膚の移植もして、見た目はきれいになり家に帰ってもらいました。おそらくはその後・・・、その主婦は亡くなったと思われました。
 ネパールでは、たくさんの赤ちゃんが生後一年未満で亡くなります。大人まで育つのは、当時、15回妊娠するうちの一人か二人でした。したがって、この奥さんが大人まで育って結婚して子どもも生んだということは、彼女にとっては大変幸せなことであったに違いありません。彼女も、自分の多くの兄弟姉妹の犠牲の上に生きているのです。
したがって、今、「自分の利益だけ」を考えて家族を犠牲にはできないのです。そんなことが、滞在するうちに徐々にわかってきたといいます。

 川原さんは帰国して考えました。
「神は残された人生において、私に何をしろと命じておられるのか」
と。もう一度ネパールに戻って、千人の患者の手術をすることはできるだろう。しかし、他に方法がないのだろうか。
 悩み考え抜いた末、
「多くの人たちの健康を守ろう」
と、アジア保健研修所の設立に奔走し始めました。
 川原さんは最初に、奥さんに話をしました。反対すると思ったら、その場で、
「やりましょう」
と言い、賛成してくれました。でも、それは大変なことだったといいます。なぜなら、川原さんはその時、奥さんの父親が作った病院の院長をしていました。その職を辞し、全く別の研修所と病院を作ろうとすることを意味していたからです。年老いた妻の両親を残して、奥さんも一緒に家を出ることになってしまう。それでも、川原さんは立ち上がりました。

 やがて多くの人たちの応援により、AHIが1980年に設立され、今までにインド、ネパール、バングラデシュ、タイ、ミャンマーなどから、6.000人以上の人が研修に参加しました。研修に参加する人は、医師や看護師といった医療関係者もいますが、多くは地域の福祉に携わる人たちで、貧しい人たちに寄り添いながら、その人たちが助けあうことによって、自分たちの健康と生活を守っていけるようにサポートしています。