手話で受け取った「ありがとう」

志賀内泰弘著
「翼がくれた心が熱くなるいい話」(PHP研究所)
EPISODE1より

 田澤奈保子の夢は、飛行機の客室乗務員(CA)になることだった。そのきっかけは、忘れもしない小学校6年生のときのことだった。

 体育の授業で、バスケットボールの試合中に体育館の扉がガタンッと開いた。一瞬、ボールを手にしていたクラスメイトの身体が止まった。中に入ってきたのは、教頭先生だった。チラチラ見ると、担任の佐久間先生に何か話しかけている。次の瞬間、メグミからボールがパスされ、奈保子はゴールを狙い身構えた。そのとき、ホイッスルが鳴った。

 え? 奈保子は「何か反則をしたかな」と思った。

 振り向くと、先生が難しそうな顔をして、奈保子のほうに小走りに駆けてくるのが見えた。

CAになりたい!

 その5時間後、奈保子は母親と羽田空港の搭乗待合席に座っていた。

「お婆ちゃんが倒れたの。でも大丈夫よ」

 そう言う母親自身の顔が青ざめていた。夏休みになると、毎年母親の実家のある鹿児島で過ごした。お婆ちゃんの顔が目の前にパッと浮かんだ。年寄りなのに、まったく「お婆ちゃん」臭くない。まるで女優のような服をいつも着ている。「南フランスのデザインよ」と言って、見たこともないオシャレなスカーフをくれたりする。「こんなふうに巻くの」と、柄がきれいに見える使い方も教えてくれた。

 お婆ちゃんは、奈保子の憧れだった。そのお婆ちゃんが倒れたと言う。心配で心配で仕方がなかった。大声で泣き出したい気分だったが、母親のほうがショックを受けていることは子供ながらにわかった。自分の母親が倒れたと聞いて、尋常でいられるわけがない。

「お母さん、大丈夫……」

 そう言うと、母親はバッグからハンカチを取り出して口元を押さえた。奈保子は、どうしていいのかわからないまま、母親の顔を覗き込んだ。そのときだった。「お客様、ご気分が悪いのでしょうか。何かお手伝いいたしましょうか?」

 と女の人の声が聞こえた。そこに、荷物のカートを手にした客室乗務員さんが立っていた。

「医務室へお連れしましょうか?」

 母親は、今から鹿児島行きの飛行機に乗らなくてはならないことを告げた。

「1873便ですね。わたしが搭乗しますので、ご気分がさらに悪くなられたらおっしゃってください」

 そう言うと、搭乗ゲートの近くにいるスタッフのところへ駆けていき、何やら話している様子。そして、踵きびすを返して戻ってきた。

「搭乗時の際には、優先搭乗のご案内をさせていただきます。よろしければ、お手荷物もスタッフが機内までお持ちします」

 機内では、何度も客室乗務員が二人のシートまで来てくれて、母親のことを気遣ってくれた。

 それが、奈保子が将来の夢を心に抱いた瞬間だった。

(わたしもCAになりたい!)

 飛行機に乗る人には、いろいろな事情を持った人がいる。中には、奈保子たちのように、危篤の家族に会うために乗る人もいるだろう。それまでにも、「CAってカッコいいな」というぼんやりとした思いはあったが、そのことがきっかけでCAハ「人を励ます仕事」「喜ばせる仕事」と映るようになった。

突然の倒産

 奈保子は、あの出来事から10年間、ずっと憧れの気持ちを温め続け、JALの契約社員として客室乗務員の仕事に就くことができた。失敗も数々あったが、それを補うだけのパッションがあった。毎日が楽しくてたまらなかった。

 まだ「新人」と職場で呼ばれていた、そんな矢先の出来事だった。

 2010年1月19日19時。

 羽田発福岡行きのフライトを前にして、ブリーフィングに入る直前のことだった。ブリーフィングとは、乗務を共にする客室乗務員と行う打ち合わせのことだ。

 上司から、「ちょっと……」 と呼ばれて、空いている会議室へと促された。中に入ると、すでに同じ便に乗務する仲間がいた。

「なんですか?」

 と先輩に小声で尋ねたが、先輩は首を横に振った。

「これから、我が社が倒産することがマスコミに発表されます」

 みんな息を呑のんだ。お互いに顔を見合わせた。それは、以前から噂されていたことだった。でも、それがいざ、目の前の現実となると、頭の中が真っ白になった。これから自分はどうなるのだろう。今はまだ契約社員という不安定な立場だ。せっかく夢がかなったのに……。CAを辞めなければならないのだろうか。

 実は、それ以上に過酷な状況が目の前に迫っていた。これから奈保子が乗務する便は、会社更生法を申請することが発表された後の、最初の便になるのだという。おそらく、取材陣が押し寄せるに違いない。「誠意を持って、いつも通りサービスに務めるように」との話だった。

 ゲートに向かうと、すでに大勢の報道陣が詰めかけていた。テレビの取材クルーやカメラマンもいた。その大半が、飛行機に乗り込んできた。機内の写真を撮ったり、CAたちに取材のインタビューを求めたり。そして、奈保子にもマイクが突きつけられた。

 それからが本当の過酷な日々だった。

「皆様、日本航空は再生に向け、株式会社企業更生支援機構によるご支援をいただくこが決定いたしました。JALグループ再生をめぐる一連の動きの中、皆さんに多大な迷惑とご心配をおかけしておりますことを、心よりお詫び申し上げます。・・・」

 こんな機内アナウンスをすると、罵声を浴びせられた。「オレの株はどうしてくれる?」。サービス一つにも「JALはダメだなぁ」という厳しい言葉が。夢がかなった先にあったのは、お客様からの辛い言葉や厳しい視線だった。来る日も来る日も、辛い乗務が続いた。「辞めたい」「逃げたい」という弱気な自分との闘いだった。

 

 そんなある日のことだった。

 札幌発羽田行きの便で、お客様のご搭乗を待っていた。一般のお客様に先んじて優先搭乗のご案内のアナウンスが、待合席に流れる。

 一番初めに機内に乗り込んでこられたのは、幼い男の子を抱っこした男性だった。30歳くらいだろうか。母親の姿はない。父と子の二人旅だろうか。

ドア近くにいた奈保子は、その若い父親に声をかけた。

「何かお手伝いいたしましょうか?」

 男の子は、幼稚園に上がる少し前という年齢だ。ぐずったりはしていないが、機内持ち込みの手荷物もあり、いかにもたいへんそうに見えた。

 奈保子は、客室乗務員の仕事をしていて、いつも心に留めていることがある。それは、10年前、鹿児島行きの飛行機で、母親のことを気遣ってくれた、あの客室乗務員のことだ。だから、何かお手伝いはできないか、できるかぎりお客様にはこちらから声がけをしていた。ところが、父親は何も答えず、いや、奈保子のほうをチラッとさえも見ないで座席の方へと歩いていってしまった。

 ショックだった。よくホスピタリティという言葉が使われる。日本語に訳すと「おもてなし」といったところだろうか。こちらの気遣いに「ありがとう」を期待していないという自負はある。でも、無視されるとあまり愉快ではない。

 飲み物の機内サービスが始まった。先ほどの、父子が気になった。男の子は、泣いたりしていないだろうか。カートを押しながら進む。次があの父子の席だというときだった。

 3人掛けの座席の真ん中に座っていた50代のビジネスマンが腰を浮かせた。そして、子供を膝の上で抱えて座っていた父親に向かって、

「お子さんがいらっしゃって、たいへんですね。わたしが横にズレますから、ここにお子さんを座らせてあげてください」

 奈保子は、ハッとした。座席には余裕があり、それは客室乗務員が気を遣わなければならないことだったからだ。奈保子は、席を立ったビジネスマンに会釈をしてお礼を言った。

 ところが、席を譲られた当の本人である父親は、(何があったのか?)という顔をしてキョトンとしている。

 奈保子は、再びハッとした。そして、このとき、初めて事の次第を理解した。若い父親は、耳が不自由なのだ。だから、搭乗口での奈保子の「何かお手伝いいたしましょうか?」という一言に気づかなかった。そう、ただ聞こえなかっただけなのだ。

 父親は、ビジネスマンの気遣いを理解したらしく、頭を下げてお礼の気持ちを伝えた。

 奈保子は、筆談するため、ペンとメモ用紙を取り出して、飲み物の注文を受けた。

 

  フライトを終えて帰る電車の中で、その日の出来事が何度も思い返された。

「わたしにできることはなんだろう?」

 自分の至らなさとともに、それでも「まだ何かやれるはず」という強い思いが募っていった。そして、帰宅したときにははっきりと決めていた。

「そうだ! 手話を身に付ければいいんだ」

 多くの方々からの支援を受け、会社は一丸となって再生に取り組んでいる真っ最中だった。そんな中、あらたな社員研修を受けた。その根幹となるのが、「JALフィロソフィ」と呼ばれる経営哲学だった。会長に就任して、再生に邁進している稲盛和夫氏の経営哲学を元にしていると耳にしていた。

 奈保子は、その一つにある「一人ひとりがJAL」という項目を思い出した。

 わたしはJALの一員だ。今、お客様のために何ができるだろうか。客室乗務員という立場で、わたしの果たすべきこと、その役割は……。その答えが、手話だった。

 早速、手話講座を受講した。とはいっても、すぐに身に付くものではない。また、手話ができるようになったからといって、役立つことは稀まれだろう。それでも、勉強を続けた。

 そして……その日は、思いのほか早く訪れた。

「何かお手伝いいたしましょうか?」

 羽田発鹿児島行きの便に搭乗されたご夫婦の様子が気になった。どこがというと答えられないが、どこかしら不安げなのだ。席につかれて、すぐにわかった。ご夫婦が、手話で話を始められたのだった。荷物の置き場所を相談していらっしゃるご様子。言葉や耳が不自由だと、どこにいても「もしも」のときのことが不安になって当然だ。

 奈保子は、迷った。手話を習い始めてまだ間もない。簡単なことしか伝えられない。筆談ボードを取ってこようかと迷った。しかし、それより先に、自然に身体が動いていた。

「何かお手伝いいたしましょうか?」

 その手振りを見て、ご夫婦が微ほほ笑えんだ。手話で返事が返ってきた。

「荷物をお願いします」

そう! 通じたのだ。奈保子が、初めて耳の不自由な人に対して手話を実際に使った瞬間った。荷物を収納しても、まだ不安げなご様子。またまた、たどたどしい手話で尋ねると、飛行機の旅が慣れていないので不安なのだという。

 そこで、「安全です。大丈夫です」と笑顔で話した。するとまた、ご夫婦の笑顔が返ってきた。心の中で、何かが弾ける思いがした。

 辞めなくてよかった!

 頑張ってよかった!

 目頭が熱くなった。でも、お客様の前で泣いてはいけないと、必死の思いで涙

腺せんに力を入れて涙がこぼれないように努めた。

 ほどなく鹿児島空港に到着。あのご夫婦が、降りられる際に奈保子のところにやってきた。そして、何度も何度も、「ありがとうございました」と繰り返しおっしゃった。もちろん手話で。 右の手のひらを立てて、左手の甲を軽く叩く感じ。相撲の勝ち力士が、賞金を受け取るときの手刀を切る仕草から来ているという。それが、「ありがとう」の手話だ。

 奈保子は、「お気をつけていってらっしゃいませ。またのご利用を心よりお待ち申し上げております」と大きな手振りで伝えた。

 その後も、5メートル、10メートルと、何度も振り返っては「ありがとうございました」と繰り返された。

25そして、月日が流れた。会社が再上場を果たした翌月に、奈保子は正社員に採用された。

 奈保子は、あの日のご夫婦のお客様の「ありがとう」の仕草を、いつまでも忘れないと心に誓った。

 

「翼がくれた心が熱くなるいい話」(PHP研究所)
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-81540-4