第20回 信じて「祈る」、「祈り」は力

以前、特定の宗教を信仰していないと書いた。だが、宗教の偉大さを信じている。敬虔なクリスチャンの友人から、メールが届いた。聖書の言葉だという。

「神様は、聞いてくださいます。祈るとき、強められます。祈るとき、恩恵を受けます。祈るとき、守られていると気づきます。神様は、負けることがありません。神とともにいるなら、強められます。神とともにいるなら、恩恵を受けます。神とともにいるなら、守られていると気づきます」

信仰心がない私にも、この言葉が心にストンと落ちた。知らず知らずのうちに、「祈る」ことが日常になっていたからだ。抗がん剤治療は二週続けて点滴を打ち、身体を休ませるために二週空ける。その繰り返し。点滴の前に血液検査をして、免疫力が落ちていないかチェックする。結果が出るまでの間、じっとしていられない。思わず手を合わせて目を閉じる。最初は、待合室で他の人に見られるのが恥ずかしかった。だが、それも慣れた。みんなその場の人たちは、同じ境遇なのだから。

イエスでもなければ、ブッダでもアマテラスでもない。なぜだか顔が上に向く。自然と顔が天に向かっている。「どうか検査結果が悪くありませんように」と祈る。祈りの効果はわからない。科学的にも「祈り」は通じると唱える学者もいるらしい。実験結果もあるという。だが、何よりも「祈る」と心が安らかになった。祈っていなければ居ても立ってもおられず、病院の待合室をバタバタと走り回っていたろう。寄り添い介護する者があたふたしては、患者本人をも動揺させてしまう。

よく友人・知人から言われる言葉があった。「私にできることがあったら、何でも言ってね。何か欲しいものはある?」。実は、贈り物が一番の迷惑だった。物をもらえばお返しをしなくてはいけない。デパートに走り、お礼を送る。無駄なお金と時間の浪費だ。疲れ果てて昼寝をしている最中に、ピンポーンと鳴る。宅配便だ。ご馳走が届く。「奥さんに食べさせてあげて」とメッセージ。でも本人は食べられなくて苦しんでいる。宅配便のお兄さんが悪魔に見えた。

私は友人たちにこう頼んだ。「何もいらない。ただ、祈ってくれないかな」と。「わかった、家の神棚でいいかな。毎朝、お参りをしているから、その時祈るよ」と言われ泣き出しそうになった。私は、祈りの力を信じている。