第28回 壁の向こうに壁、崖の下に崖

それから一年半、まさしく坂道を転げ落ちるかのように悪化していった。ある日の明け方、「あ~」という叫び声。飛び起きると赤く腫れていたシコリが出血し、布団やシャツが血だらけになっていた。「大丈夫、大丈夫、すぐに取り換えるから」と落ち着き払って言うものの、私は泣きたかった。その出血する部位は何か所にも増え、傷口を消毒してガーゼを張るというのが私の一番の仕事になった。

またある日、真夜中に「う~痛い」と言い出す。それまで一度も痛みがなく、M先生からも不思議がられていたが、その時がつきに訪れたのだった。最初は一月に一度。それが二週間、一週間…二、三日に一度と激痛が起きる感覚が短くなっていく。それに伴い、ロキソニン、カロナールからフェントス、オキノームへと鎮痛剤が増えていく。いわゆる麻薬だ。痛み出すと悶える。精神的にもますます崩れる。痛みで全身が強張る。首、肩、背中、腰、足と全身のマッサージをしてやる。「ああ~気持ちいい、幸せ」と言う。1時間もすると疲れ果てる。「お願い、少し休ませて」と頼み休憩し再開。「気持ちいい」という声が聞きたくて揉み解す。だが「そこは違う!」「力が弱い!!」と叱られることもしばしば。それでも、叱ってくれる人がいることが幸せと感じる毎日。

便秘がひどくなった。下剤が効かない。苦しむ。M先生いわく「がんが転移し、消化器不全を起こしている」と。より強い下剤を投与。カミさんにとって、排便が一番の仕事になった。そして入院。検査結果は最悪。ホルモン療法を停止して今後について話し合うこととなった。本人は「何もしない」と言う。私も義父母、友人、親しい看護師も、「可能性があるなら、もう一度抗がん剤をしよう」と勧める。そして本人が折れた。私も揺れに揺れた判断だった。

退院して在宅治療をすることに決めた。今は亡き母親に言われたことがある。「一人で病人を在宅介護してはいけない。あなたが先に死ぬ」と。父親を病院から引き取ろうとした時のことだった。だが、迷いはなかった。費用はかさむが、毎日一時間、看護師さんに訪問看護に来てもらった。ヘルパーは頼まず、ときどき義母に来てもらい掃除・洗濯の手伝いをしてもらった。だが、むなしい結末を迎えることになった。二度目の抗がん剤は効かず、M先生からこう告げられた。「治療はできなくなりました」。それを聞いて、カミさんは何だかホッとした表情だった。その晩言った。「もう抗がん剤やらなくていいんだよね」と。とても嬉しそうだった。