メルマガ「志賀内泰弘の恩送り通信」トピックス№3

メルマガ「志賀内泰弘の恩送り通信」トピックス№3
 

 ☆今の私があるのは、友人・知人・両親・親戚・先輩・同僚・心の師など大勢の人たちの「おかげ」です。いただいたたくさんの「御恩」を次の人へと
「送る」ために、新作や約3.000本のアーカイブスから厳選してお届けします。
名付けて「志賀内泰弘の恩送り通信」です。
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 車椅子の生活をしている友人がいます。
白倉栄一さんです。
 ハンデをもろともせず、経営コンサルタントとして全国を飛び回っています。
 その白倉さんが、初めての本を出版されました。
 てっきり、「車椅子からの挑戦」とか「ハンデを超えて幸せに」という内容だと思い込んでいました。
 ところが、そのタイトルを見て自分の思い込みを反省。

 「いつも仕事が速い人が大切にしていること」
 (KKロングセラーズ)

なんと、ビジネス本だったのです。
少しの発想の転換で、大きな成果が生まれると謳われています。
しかし、熟読すると、そこに白倉さんの「人生」が見えて来ました。
そうなのです。
どう時間を使うか。
それは、どう生きるかということ。
そして、どう人と向き合うか。
それは、自分を磨くこと。

白倉さんは言います。
今が上手くいかなくても、打つ手は無限の気持ちで信念を貫けば、きっと道は開けると。

今日は、白倉さんに出逢った2020年に書いたお話を、メルマガの号外としてお届けします。

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「車いすの自分だからこそ、みんなの役に立てる」
                 志賀内泰弘
                        
元気でパワフルな車いすのコンサルタント
初めて白倉栄一さんに会ったとき、私は思いました。
「なんて元気な人なんだろう」
声はでかいし、顔色も艶々している。
下半身が不自由で、車いすの生活というハンデによる「陰」がまったく感じられないのです。
何かそこに秘められたものがあるに違いない。
ハンデを跳ね返すエネルギーの源が知りたくて、聞きにくいことも尋ねました。
まずは、「なぜ、車いすの生活になったんですか?」という問いかけから。

意識が戻ると、ベッドの上で下半身が動かなかった
スーパーマーケットのイオンに就職し、埼玉県の上里町の店舗に勤めていた24歳の時の出来事でした。
1996年9月1日。スクーターに乗っていた白倉さんは交通事故に遭いました。
右折した時、向こうからやって来た車と衝突したのです。
意識が戻ると、そこはベッドの上でした。
駆けつけてくれたご両親がベッドの脇に座っていたそうです。
その時、まだ当の本人は知りませんでしたが、ご両親は担当医から「もう一生歩くことはできません」と告げられていたそうです。
これは後で聞いた話。ご両親は、いつ、どうやって息子にその辛い事実を告げたらいいのか、悩んでいたそうです。
こういう場合、普通はかなり時間を経て、患者の精神状態を伺いつつ判断するものといいます。
意識が戻った翌日の晩のことでした。
白倉さんは、両親に漏らします。
「足が動かないけど、俺はこれからどうなるんだろなあ。どうしたら、動かせるようになるんだろう」
と。お母さんは、こう答えたそうです。
 「だめみたいだよ」
 けっして、深刻な悲壮な表情ではなく淡々と。
お母さんは、どれほど辛かったことでしょう。
相当な葛藤があったに違いありません。
「悲しそうな顔」で告げたら、いっそうショックが大きくなる。だから、あえて「淡々と」話したのかもしれません。
 それを聞いて、白倉さんは泣き明かしました。

 5年、10年前に今の世の中が想像できたか?
 一晩泣き明かした、その翌日のことでした。
 お父さんは、白倉さんにこう話したそうです。
 「今はたしかに、担当医の先生は二度と歩くことはできないと言っている。
でも、医学は日々進歩しているんだ。
お前は5年、10年前に、今の世の中が想像できたか?できなかったろう。
これから何年か後に、医学が進歩して、治せない病気も治せる時がくるかもしれないんだ」
と。神妙に耳を傾ける白倉さんに、お父さんはさらに話をつづけました。
 「いいか、その日のために、今、すべきことがあるはずだ。
それには2つある。一つは、治療できるようになった時のために、体力をつけることだ。
そしてもう一つ。それは、お金を貯めることだ。
手術を受けようとした時、治療費が支払えるようにしておかなくてはならないからな」
 白倉さんは、これまた淡々と語るお父さんの話を聴いて、パッと目の前が明るくなった気がしました。
「生きる希望」が湧いてきたのでした。

苦難のリハビリの後、職場に復帰
 1997年11月21日、職場復帰を果たしました。
会社にも都合があります。いついつまでに復職できなければ、解雇せざるをえないという通知を受けていました。
その前に復職するため、白倉さんはリハビリの努力を重ねたのでした。
それは、ご両親の励ましによるところが大きかったといいます。
お母さんは、ほとんど毎日、ベッドの脇の床に寝泊まりし、お父さんは仕事の合間を縫って自宅の茨城から通って励ましてくれたそうです。
1年余りの間に、ご両親は疲労が募り、やせ細ってしまったそうです。

CS(顧客満足度)ナンバー1を勝ち取る
 それから十数年、白倉さんは仕事に邁進します。
 店舗の人事総務課長に就任し、白倉さんの勤める店舗は2013年下期において、全国のイオン449店舗の中で、CSナンバー1になり表彰を受けるまでなりました。
 白倉さんは言います。
 「ずっと従業員の業務改善活動によるチームビルディングに力を入れてきました。
ES(従業員満足度)が高まり、チームが一丸となること。それこそが、お客様に対するCSに結びついたのだと思っています」
 車いすで、課長と言う重責を負うのは、どれほどたいへんなことか。
想像することもかないません。
でも、間違いなく言えることは2つあると思いました。
 一つは、「あの日」、お父さんから明日への希望の言葉をもらったこと。
それがエネルギーとなって仕事に打ち込めた。
 そしてもう一つ。ハンデを負った白倉さんだからこそ、弱った人の心がわかる。
人の相談にも乗れる。
やさしい言葉もかけられるし、励ますこともできる。
いずれも、事故に遭ってしまったことの、プラスの財産によるものではないかと。

バリアフリーじゃない、バリアフリールーム
職場復帰をして5年ほどが経ったときのこと。
白倉さんは、横浜の有名な一流ホテルに宿泊しました。
案内に「バリアフリールームがあります」と書かれていたからでした。
ところが・・・。いざ部屋に入ると、トイレにも行けないし、お風呂にも入れませんでした。
まず段差があって乗り越えられないこと。
それよりも何よりも。トイレとお風呂のドアの入り口が、車いすの幅よりも狭いのです。
すぐにフロントに電話をして、「車いすで使える部屋に変えてもらえませんか」と言うと、驚くべき言葉が帰ってきました。
「我慢してください」
愕然としましたが、どうすることもできません。
お風呂は入らずに「我慢」しました。でも、トイレはそういうわけにはいきません。
「小」の方は、ペットボトルの中に入れて済ますことにしました。
「大」は、本当に「我慢」するしかありませんでした。

全国一周して、バリアフリースポットを調査
 自分と同じように、辛い思いをしている人がいるに違いない。
そう考えた白倉さんは、利用したレストランや公共施設などが、バリアフリーの状態になっているかを、ブログで発信し始めました。
最初は茨城県内。その後、関東全域へと調査を広げていきます。
 すると、全国の読者から問い合わせが届くようになりました。
「北陸地方のバリアフリースポットを教えていただけませんか?」と。
それに応えるべく、ついに白倉さんは大きな決断をします。
 「残りの半分の人生は、会社の中で仕事をするのではなく、誰かのために喜ばれる仕事をしよう」
 2016年、起業を決意し、退職届を出しました。
まず最初にしたこと。それは、車いすで全国を旅して周り、バリアフリースポットを調査することでした。
なんと!その数は1.000件にも及びました。

 現在も「使えない」バリアフリーのトイレが多い
 白倉さんが、「我慢してください」とホテルマンに言われたのは、2003年のことです。
2006年に、「高齢者・障害者・妊婦・傷病者などが移動したり公共施設などを利用する際の利便性・安全性を向上させるために、公共交通機関・施設および広場・通路などのバリアフリー化を一体的に推進することを定めた」バリアフリー新法が制定されました。ところが・・・です。バリアフリーの施設は作ったものの、「使えない」または「使いにくい」ものが実に多いことに、白倉さんは調査を通して驚かされました。
 例えば・・・。
 【入れないトイレ】
 トイレの出入口近くにある洗面所の下に大きなゴミ箱が置いてあり、車いすが中に入れない。
 【操作パネルに手が届かない】
 トイレに座って用を済まし、流そうとするが操作パネルが見つからない。なんと、真後ろに!?これでは、健常者ですら不便。
 【手すりの幅が、使用者の気持ち度外視】
 便座に座る時、車いす使用者は、便座の両側に設置されている手すりに掴まって身体を移動させる。
ところが、この手すりの幅が、広すぎたり狭すぎたり。
ベストは70センチ。それが90センチとか50センチとか。
【入れるけれど、出られないトイレ】
車いすでトイレに入る。用を足して、さあ出ようとするが出られない。
室内が狭くて、車いすを旋回できない。

 これらは、けっして珍しいことではないといいます。
なぜ、こんなことが起きてしまうのか。
それは、バリアフリー新法が制定され、ただの義務感から設置しているからに他なりません。
せっかく多額の費用をかけているのに、なんともったいないことでしょう。

なんと、バリアフリーにすると、お店が儲かるのです!
白倉さんは、いま、全国のホテルやレストランが、バリアフリーの設備を作る際のコンサルタントをしています。
「使い勝手のいい」バリアフリーにするためです(当たり前のことではありますが)。
肩書は、あなたの会社の「バリア解消請負人」。白倉さんは言います。
「車いすを使用する人は、いつも快適に利用できるお店を探しています。
でも、これがなかなか見つからない。
こんなケースがありました。
20人くらいで同窓会を開くことになり、幹事さんがバリアフリーの居酒屋を探しました。
クラスメイトの一人が、車いすに乗っているからです。
店の入り口に段差がないか。トイレがバリアフリーになっているか。
オーナーやお店員さんが、車いすのお客様を敬遠するお店もあります。
悪気があってのことではありません。どう対応したらいいのか、わからないというのが真実のようです。
トラブルになるのが怖いというのも本音」
「なるほど、その気持ちはわかる気がしますね」
「でもね、実は、バリアフリーは儲かるんです。
現在、なかなかバリアフリーが整っているお店は少ない。
さらに障がい者対する接客のノウハウもない。
そんな中、バリアフリー設備が充実し、快適な接客もできるお店があれば、20人の同窓会の予約が入るのです。
たった一人、メンバーに車いすの人がいることで、19人の健常者のお客様も「オマケ」でついてくるのです。
そういう障がい者に「優しいお店」は、ネットで有名になります。
下手な広告をしたり、割引券を配るよりも売上がアップするのです」
実際に、北海道と関東を中心に展開する和食レストラン「とんでん」は、設備も接客もバリアフリーがすぐれており、車いすのお客様に人気があるそうです。
白倉さんは、「車いすの目線」が、お店の人、利用する人の両方が幸せな世の中になるように奔走しています。

(参考)
バリアフリースタイルのホームページ
https://baria-free.jp/company

「車椅子生活になってバリアフリースポットの調査
→日本1周に至った経緯」
https://baria-free.jp/japan/ambitious-japan

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